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世にも不思議な『ドレス映画』だった実写版『シンデレラ』~プリンセスと、労働者と、実写の継母~

 

ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品。

 

 

シンデレラ オリジナル・サウンドトラック (2CD)

 

見てきました。今思うと、この時点(↑)で完全にドレスと靴を見せるためのポスターでしたね…。

 

 

●「ディズニープリンセス」なるものの与えた影響

 

まず、何を言っても最初に語らねばならないのはシンデレラのこの「青いドレス」でしょう。

シンデレラのこの「青いドレス」と、「ディズニープリンセス」にはちょっと複雑な関係があります。

(ごめんなさい、私、これからちょっとディズニーファンのあなたには当たり前のことを言うかもしれません。もしそういう方がいたら次の改行まで読み飛ばしてくださいね。)

まず、今回の実写版のシンデレラのドレスを見てみてください。そうです、青ですね。

次に、1950年代版の、ウォルト・ディズニーが手がけた元祖シンデレラのドレスを調べてみてください。そうです、白です。

今調べてくれた方の中には、シンデレラのドレスはアニメ版からもともと青だと思ってた人いませんでしたか? 大丈夫、あなたに罪はありません。その理由をちょっくらお話します。

 それは「ディズニー映画」と「キャラクターグッズ」の因縁のお話です。

 

今ではすっかり定着したましたが、実は、2000年ごろまでは、「ディズニープリンセス」なるものは存在しませんでした。映画作品としての「白雪姫」が、「眠れる森の美女」が、「シンデレラ」が、それぞれ別個に存在しているだけでした。

コンシューマー・プロダクツは1990年代後半ごろから経営難にあえいでいました。この時代は、この前お話した"ディズニー迷走期"ですね。

ディズニー迷走期についてはこの前の記事、イントゥザウッズ評をご参照ください。

 

 

annnnnn.hatenablog.com

 

 

ディズニープリンセス」という概念を作り出し、グッズとして大成功させ、コンシューマープロダクツを救ったのはアンディ・ムーニーという男でした。

ある日のこと、ディズニー・オン・アイスに視察に出かけたムーニーは、客席の小さい女の子たちのほとんどが着ているプリンセス・ドレスに目をつけます。それらは母親たちの涙ぐましい努力による手作り品で、それを見たムーニーはこれをグッズ化したら絶対に売れる! と確信します。さっそくムーニーは、社内で「プリンセス」と呼ばれるブランドを企画。

ただし、ロイ・ディズニーなどの古株は、別々の作品のプリンセスたちを一緒くたにして販売することについて大反対でした。

ただし、彼らも経営難には逆らえない。ゴーサインを出す代わりにロイの出した条件は、「同じ絵の中に存在しても、プリンセス同士が絶対に目を合わせないこと」でした。(だから、プリンセスグッズを見てみると、どのグッズもプリンセスたちはまるでお互いの存在に気づいていないかのように別々の方向を向いています。ぜひ見てみてください)

 

かくして生まれた「プリンセス」なるブランドは、現在のこのディズニーストアの、玩具売り場の、イオンの文房具屋の、イトーヨーカドーの机売り場の状況が表すとおり、大大大ヒットとなったわけです。

 

グッズが売れると映画も作れる、映画が売れるとグッズも売れる。

プリンセス映画全体を相対化(反省?)した作品「魔法にかけられて」「アナと雪の女王」などを作り、

ディズニーは「暗黒期」を抜け出し、復活していきます。

 

ディズニーの復活に関しては、もちろんピクサーから引き抜かれたトップ、ジョン・ラセターの功績が大きいでしょうが、「プリンセス」ブランドのヒットも影響を相当に影響を与えたはずです。

 

ディズニーはプリンセスのイメージが白人像に固まるのを避けるため、「プリンセス」を打ち出すにあたり人種・年齢・立場のさまざまな11人のプリンセスたちを「プリンセス」として位置づけています。

(ちなみに白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、アリエル、ベル、ジャスミンポカホンタス、ファ・ムーラン、ティアナ、ラプンツェルメリダの11人です)

 

そこには、「年齢も人種も地位も関係ない。誰もがプリンセスだ」というディズニー側の先進的な主張があったのです。

にもかかわらず悲しいことに、せっかくプリンセスに含めたけれど、アジア系の女性であるムーランや、民族衣装に身を包んだポカホンタスよりも、世界中の女の子たちにとって、プリンセスとは「中身」よりも「ドレス」でした。

女の子たちに常に人気があるのは、 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人で、せっかくバラエティにとんだメンバーをセレクトした11人のプリンセスだけれども、この3人がほとんどのグッズで真ん中を占めています。

 

本作の監督のケネス・ブラナーは、そんな「女の子のプリンセスに対するときめきの主成分=ドレス」を、よくわかっているようでした。

監督は映画内で、やりすぎなほどにドレスを見せつけていました。

思えば、予告編の映像も「ドレス」並びに「変身シーン」を最大に売りにしていましたね。

靴のシーンと、クルクルとターンしつつの衣替えシーン、最大の見せ場である変身シーンのあと、上記のダンスパーティのシーンでも、色とりどりのドレスの中で、ちょっと不自然なほどに「ヒラッ」、「ヒラッ」と、裾を揺らす振り付けで中のパニエを見せています。

宮廷舞踊や、ワルツなどのモダンダンスではそんなに裾を動かしません。よって、これらは映画のための演出と思われます。

 

ところで、歌やダンスといえば。

映画冒頭で「姉たちは意地悪で、もちろん芸術の才能もありませんでした」として姉たちの酷いピアノと歌のシーンが出てくるのですが、このシーンはただのギャグシーンではありません。シャルル・ペロー版の「シンデレラ」が愛読された18世紀ごろ、身分の高い女性は仕事が持てず、身分の高い男性の妻になるしかありませんでした。よって、女性にとって「芸術の才能(社交界で歌を歌って客人を楽しませるため)」はなくてはならないものでした。姉たちのひどい歌のシーンは「芸術の才能が無い=レディではない女性」という毒のあるシーンです。

あとで書きますが、本作実写版「シンデレラ」は原作の持つ差別意識をなくそうとした色々な試みが見られますが、このシーンは残されています。

 

 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人のグッズが大ヒットする中で、シンデレラのドレスは、いつの間にか白から青になっていきます。理由は公式にはわかっていませんが、おそらくグッズとしての収まりのよさ、3人で並んだときの色的なメリハリをつけるためでしょう。

 

有名な話ですが、ウォルト・ディズニーが最も好きなシーンは映画『シンデレラ』の変身シーンでした。

シンデレラの初の実写化で、公開されたポスターアートが「青のドレス」だったときの私たちのざわめきの理由、ご理解いただけましたでしょうか・・・・

いくらプリンセスグッズが大ヒットしたとはいえ、それまでグッズブランドと映画作品の間には一線が引かれておりました。

つまり本作『シンデレラ』は、「ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品と言えるでしょう。

 

 

 

●「足が臭い」は笑えること?

ところで、「おや?」と思うのは「労働者」の描き方です。

今回のシンデレラではPC(※ポリティカル・コレクト:政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2015/04/26 23:56 UTC 版))に配慮してか、家臣の1人の重要なポジションにアフリカ系アメリカ人の俳優さんを入れてるのですが(ノンソー・アノジーという俳優さんです)、王族サイドは白人が揃っており、家臣に黒人男性であることで、「おや?」と思うシーンがあります。

というのも、シンデレラという作品には、原作からちょっと問題があって、カボチャ馬車を引く従者や馬子などの「労働者」に化けるのは、ネズミやガチョウなどの「動物」なのです。

(ちなみに、ネズミ→馬、カメレオン→馬子、ガチョウ→御者に、それぞれ変身します)

近代以前のヨーロッパの価値観には、階級が違うと同じ生き物ではない、という意識(無意識?)があります。私たちからすると意外なことですが、奴隷は人間ではなく「人の言葉を話す動物」で、妻は夫の所有物であり「親指以下の太さなら鞭で叩いてもいい」生き物でした。

シャルル・ペローの原作の描かれた17世紀の階級意識が表れており、ここは興味深いシーンです。

家臣にアフリカン・アメリカンの俳優さんを入れ、現代の感覚にアップデートしたことと、17世紀の価値観ならではのこのシーンは、奇妙に一つの映画の中に収まっています。

 

それから、「労働者」についてもう一つ。

国中がガラスの靴を試すシーン。シンデレラが落としていった靴にピッタリ合う足を捜して国中の娘を試すシーンです。

人で賑わう営業中のパン屋の中に大尉たちが入っていって、パン屋で働く中年女性がガラスの靴を試すのですが、女の足が臭くてみんなが倒れるというギャグがあります。

映画の前半、めげずに働くシンデレラに共感しながら見ていた人ほど、ここにきてあれ……? と首を傾げるのではないでしょうか。

本作のシンデレラが尊いのは「王子様と結婚できたから」ではないはずです。「もともとの生まれが高貴だったから」でも。

シンデレラが尊いのは「メイドのように扱われても、優しさと希望を捨てずに働いたから」であって、「労働は尊い」というメッセージも持っています。

労働者の女性の足が臭いシーン。笑えるでしょうか。
「働く人の足が臭いのはカッコ悪い」という価値観は、「継母サイドの高貴な人」のものであるはずです。

 

 

●金に困った未亡人は悪役か

 

継母役で登場したケイト・ブランシェット。彼女の登場シーン、カッコいいですね。

やり過ぎなほど間を取って、スクリーンが足元、後姿と順に彼女を大きく映し出し、つばの広すぎるドデカイ帽子の影から、チラリと目を覗かせるあの登場シーンは、ハリウッド版「ゴジラ」が登場したあのシーンばりに「よっ!」と掛け声を入れたくなります。

 

 

さて、彼女は「心の貧しい可哀想な人」でしょうか。

ここに、アニメと実写の違いがあります。

アニメ版のシンデレラでは、継母は徹底して記号的に描かれています。アニメであることもあり、私たちは彼女を「意地悪な継母」という記号として見ることができます。

しかし、実写で生身の人間が演じると、私たちはどうしても「その人の背景」を想像してしまいます。なんたって、同じ人間なのですから。

本作で説明される彼女の背景は、高貴な身分の女性であり、2度も夫に死なれた未亡人であり、娘を2人抱えています。しかも、王子のセリフから、この時代が戦時中であることが示されます。

先ほどもちらりと触れましたが、17~18世紀の身分の高い女性は、仕事を持つことができませんでした。結婚できなければ、ガヴァネスと呼ばれる教師になるか、売春婦になるかの二択だったというのですから、とんでもない時代です。

 

シンデレラが父の死を知らされたシーンでは、彼女は父を想って悲しむシンデレラとは違って、「身の破滅よ!」と自分と娘の身を案じて血相を変えます。

シンデレラの他人を思いやる優しさと強さとの対比になっていますが、

彼女のことを考えれば、彼女の反応だって、彼女の境遇を想像したら当然すぎるように思えてなりません。

 

悲劇の根幹は継母が意地悪なことではなく、当時の女性の自由があまりにも制限されていたことです。

必死に生きようとした継母とシンデレラに、若さ以外の何の差があるでしょうか。

継母はシンデレラのように王子様並びに安定したお金持ちと結婚できなくて、しかも路頭に迷ったりする女性が実際に多くいる中で、生きるために「優しさと勇気」を失った人かもしれない。シンデレラだって歳をとれば継母のようになる可能性も充分あったはずです。

 

 

●「フローズンフィーバー」

 

ご存知の方も多いと思いますが、本作にはアナ雪の続編「アナと雪の女王/エルサのサプライズ」というおまけがついています。

あの終わり方からして、続編を作るのは難しかったでしょうに、軽い話のようでいて映画の後日のあの3人(+オラフ)のその後の関係を想像させる、素敵な続編だったと思います。

アナとエルサとクリストフの関係は、なんだか江國香織の「きらきらひかる」を思い出させますね。「きらきらひかる」に描かれたのは同性愛者のカップルと体裁上結婚したその妻の友情でしたが、同性愛者に限らずマイノリティが互いを侵さず共存する道を温かく示しているように感じられて、ちょっと泣けてきます。

 

 

 

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c.bunfree.net

(↑のページは前回のものです) 

 

 

【出典】

プリンセスグッズについてこちらを参考にしています

 

プリンセス願望には危険がいっぱい

プリンセス願望には危険がいっぱい