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ごめんなさい、私、"サスペリア"の悪役に哀愁を感じずにいられません! ~サスペリア(1977,伊)とティム・バートンの『シザーハンズ』~

リメイク版の『サスペリア』が話題なので、以前書いた旧作の『サスペリア』についての記事を公開します。

もう40年も前の映画なんですね……

 

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ごめんなさい、私、"サスペリア"の悪役に哀愁を感じずにいられません!
サスペリア(1977,伊)とティム・バートンの『シザーハンズ』~

 

真夜中、美少女、バレエ学校。大雨の降る中で、ヒロインが寄宿舎に到着すると、見知らぬ少女が何者かに追われているかのように怯え、何か叫んでいる。「秘密のドア、アイリス、青色の……!」。
なんてステキなオカルト映画だろう。本作"サスペリア"はドイツのバレエ名門校に入学した若い娘が、次々と遭遇する恐怖体験を描いたイタリア映画だ。
寄宿舎はおとぎ話のように優雅な建物で、全体がヴィヴィッドな赤い壁に、これまたヴィヴィッドな緑の照明。最初の犠牲者の少女が息を引き取るとき、天井から落下したカラフルなステンドグラスがいっせいに割れ、ホールいっぱいに極彩色が飛び散る……。
シャワールームでまことしやかに囁かれる「魔女伝説」、毎晩確かに聞こえてくるのに「途中で途切れてしまう足音」、増血にとヒロインが飲まされるのは「血のように赤い葡萄酒」。
細部の一つ一つに、いちいち「オタクごころ」をくすぐられる。色彩やファッションの、丸尾末広の画風のようなヴィジュアルは、平成生まれの私からすると、まるで「昭和レトロお化け屋敷」。今で言う「サブカル」の人がメロメロになりそうな要素が満載だ。
なんでも、このオカルト全開の怪しい作品は、70年代の日本で大ヒットしたらしい。 
平成のポップでライトなカルチャーに嫌々ながらも育てられた私からは、この映画が大ヒットしたなんて、一体どういうことなのか、にわかに信じがたい。
本作のあらすじはこうだ。
ヒロインのスージーが入学したドイツの名門バレエ学校。そこは、なぜか愛想が悪く、どこか不気味な講師たちが取り仕切る館だった。この講師たちの面々が、ただ立っているだけでオカルト全開で素晴らしい。生徒の前に決して姿を見せない女理事長。代理のマダム・ブランクは目鼻立ちがギョロギョロと際立つ顔立ちで、厳格な主任講師のタナー女史は、見事なまでの魔女顔である。ルーマニア人の下男パブロはあまりにも体が大きくてまるでフランケン・シュタインだし、マダムの甥で9歳になるアルバート少年の、ゾッとするほど青白い顔は、まるで吸血鬼のようだ。本当に、これだけ怪物感のあるメンツを、よくここまで揃えたものだ。
スージーは、サラと仲良しになり、真夜中の寝室で、2人は壁越しに、どこかへ立ち去っていく奇妙な足音を耳にする。サラはあの呻き声の主が、海外旅行中の理事長ではないかとスージーに告げたが、翌朝、それをタナー女史に尋ねると、冷たい否定が返ってくるのだった。
この「教えてくれなさ」は現実とリンクしていて、なんとも恐ろしい。私は大学時代に女子寮に入っていたので、スージーとサラの感じた恐怖を、とても自分の近くに感じた。所属している集団に、独特のルールがある感じ。全貌を見せてもらいたくても、すべては教えてもらえない感じ。変だと思うことを口にしても、冷たく返ってくるだけで、「深く考えてはいけない何か」がある感じ、それをみんなで気にしないようにしている感じ。
わからないことがあると、人は想像で埋めようとする。何も情報がない場合、いっそう不安が掻き立てられて、それは自分の想像しうる最も恐ろしい想像となる。誰も教えてくれないことがあり、それが自分の寝起きする場所についてのことであれば、私たちはそれについて、想像せずにいられない。「わからないことに対する恐怖」、それが私の考える「ホラー」の本質である。
ある晩、サラは一人、謎の足音を追いかけてベッドを抜け出す。足音は屋根裏に続いており、なんとか気づかれずに忍び込めたものの、そこには誰もいない。彼女は背後から、何者かに鍵を閉められる。窓は高い位置にしかついておらず、部屋には大きな箱が一つ。まるで彼女を誘導するように……。木の箱を踏み台にして、彼女は窓をよじ登るが、落ちた先は罠部屋だった。無数の針金が彼女の体を突き刺し、彼女は絶命する。
次の日、誰もいない寄宿舎に戻ったスージーはついに意を決して、葡萄酒を捨て、学校の秘密を暴こうとする。足音の数だけ廊下を歩くと、スージーは校長室にたどり着く。そこでスージーははじめての夜の女学生の言葉を思い出す。「アイリスが3つ。青いのを回すのよ……。」
壁を見ると、アイリスの飾りがあった。青いアイリスを回すと秘密のドアが開く。奥の部屋では講師たちがスージーを呪う儀式をしている。この学院は魔女たちの館であり、バレエ教室はもともと魔女の儀式の踊りから派生したものだったのだ! そこには長老のエレナ・マルコス(溜息の母)がカーテン越しのベッドにいた。スージーはガラス製の孔雀の置物の羽根を取って、マルコスの喉を突き刺す。彼女の死とともに館が崩れはじめる。激しい雨のなか、スージーは一人、館から逃げ出した。
……以上が本作のあらすじであるが、私の感想を正直に言う。バカなことを言うかもしれないけれど、皆さん、どうか、ちょっと想像してみてほしい。
秘密のドアが開き、講師たちがスージーを呪う儀式をしているシーン。このシーンで、私は本作をとても真面目に見れなくなった。だって、あんな広い部屋の中で、なぜそんな狭いところに集まってるの!? 絵面がだいぶシュールなのに、講師たちは"キメ顔"で、みんな一斉にこっちを見ている。私にはこのシーンが、みんなで一生懸命カメラに映ろうとしているようにしか思えないのだ。
そう考えると、全てのシーンが反転して、講師たちサイドの事情が想像されて仕方がない。
サラが針金の部屋の罠にかかる恐ろしいシーン。ここは閉じ込められたサラがちょうど踏み台にするための木箱に気づくように出来ている。まるで「ピタゴラスイッチ」のように。冷静に考えると、これは講師たちが設計して設営したということであり、みんなで集まって模造紙を広げて和気あいあいと話し合う様子が浮かんでしまう。「どうするどうする?」とはしゃぐ魔女たち、という情けない光景が。文化祭か。
ルーマニア人のパブロは一番下っ端らしいので、ホームセンターとかに車で資材を買いに行かされたかもしれない。大きな体で、顔が不気味なこの男は、絶対に店員に覚えられるに違いなく「あの人また来たわよ」とか小声で言われていそうである。
この学院は魔女たちの館であり、バレエ教室はもともと魔女の儀式の踊りから派生したものだったのだ! という真相が明かされる瞬間も、「わあ怖い!」とはとてもならず、経営難でその方向に舵を切ったのかな……そのときも会議したんだろうな……と思うと、なんか、応援してあげたい。
なぜ? 私の持った感想は、恐らく意図されたであろうものと、なぜこんなにも違うのか。私には怪物たちが不憫に思えて仕方ない。彼らが何をしたと言うのか。確かに人間にとって恐ろしいかもしれないが、彼らだってそうしないと生きられない。彼らだって知力を駆使して人間文化に溶け込んでいるのだ。生き残るためにホームセンターに通い、経営難を乗り越えて。
私と、これを恐怖として受け止めた70年代の若者の間にある、徹底的な差とは何か。私はすぐに答えに思い至った。ティム・バートンのせいだ。
90年代、ティムバートンはオカルト映画に革命的な映画を次々発表しまくった。子供のころから絵の上手い少年で、ウォルト・ディズニーカンパニーにアニメーターとして働いていた彼は、途中から、ディズニーの空気と合わなくて精神的におかしくなってしまう(※1)。今となっては、それは至って無理もないことだったのだろう。明るく平和的なウォルトディズニーの作風と、彼の資質は違いすぎた。
フランケンウィニー1984年)、シザーハンズ(1991年)、ナイトメアービフォアクリスマス(1993年)、コープスブライド(2005年)……。彼の作品はどれも『怪物たち』に親しみを覚え、怖いながらも可愛く思える作品ばかりだ。なぜ、彼はこれまで恐怖の対象としてだけ描かれていた怪物たちを、不憫で、報われなくて、愛しくてたまらない生き物として描き続けたのか。その答えは彼の子ども時代にある。
シザーハンズ』の主人公、エドワードは手がすべて刃物でできていて、不器用で、喋ることができないけれど、手に付いたハサミで色んな植木を切ったり、切り紙や彫刻をして一生懸命自分を表現する。真っ白な顔とボサボサの髪、その上指が全部刃物などという不気味な見た目に、最初は怖がっていた街の人々も、彼の作品での表現を通じて交流することができ、次第に彼を受け入れていく。
「これはティム・バートン自身がそうで、というのも、学校でレポートを出せって言われたときにどうしても作ることが出来なかったんですね、彼は。言葉があんまり得意じゃないから。で、彼は、絵を描いたり、映画を作ったりすることで自己表現をして。で、そのまま大きくなって映画を撮り続けてるという人なんですよ」と、映画評論家の町山智浩さんは話す。
「この映画は、最初は可愛い話で、彼はみんなと仲良くなるんだけども、結局彼は受け入れられずに、街の人たちはだんだんだんだんストレンジャー(異者)として彼を追い詰めていくと。これは、フランケンシュタイン(1931年,米)のラストと全く同じです」。
怪物物語の名作、フランケンシュタインは、読む前には怖い怖いイメージがあるが、話を実際見てみると、人間によって作られた怪物が、人間によって勝手に差別されていく、悲しい悲しい話である。ティムバートンは子供のころ、こういう映画ばっかり見ていた。
「子供のころって、何考えて過ごしてたの?」と聞いた町山智浩さんに、ティム・バートンは語った。「自分が怪物なんだと感じていた。周りに誰も似たような人がいなかった。みんなは俺のことを気持ち悪いと思ってるんだ。いつか、何かが起こったときに俺は真っ先に疑われて、殺されるかもしれない、そんな恐怖をずっと抱いてた」。彼が育ったのはパステル調の家々が並ぶ、親子で休日は楽しくキャッチボールをするような1940年代の郊外で、これはもちろんシザーハンズエドワードが差別される街のモデルである。
彼は自分自身を投影しながら、不気味だけどど心は純粋で、不器用な存在として、怪物たちを描き続けた。
彼の映画は大ヒットした。90年代次々と発表されたティム・バートンによる作品群は、世界の人々の「オカルト映画感」をまるごと変えた。そうして私のような、サスペリアの悪役の扱いに戸惑いしか感じない若者世代が誕生した。
彼を脱退させた後のウォルト・ディズニーカンパニーも、会社の作風と全く方向性の違うティム・バートンの作品に、なぜか次々と予算を与え、怪物映画を作らせ続けた。「なんでディズニーは前例もないような作品を、次々製作させてくれたのは俺にも全然わからないから聞かないでくれ!」と言うのは、他でもないティム・バートン自身の語るところ(※1)。
実は私には、なんとなく思い当たる節がある。「手が全部刃物で出来ているから美しいものを作れるけど、そのせいで人を傷つけてしまう」シザーハンズ? それってエルサ(『アナと雪の女王』2014,米)の氷の力と全く同じではないか!
ディズニーが『アナと雪の女王』の製作に取り掛かったとき、雪の女王エルサは元々ヴィラン(悪役)として設定された。ところが製作の真っ只中、"マイノリティとしての力を爆発させてしまおう"というメッセージを描いたあの名曲『Let it go』がいい歌すぎて、スタッフは急遽設定を大改編した。エルサを、迫害された心を持った、救うべきもう一人のヒロインに。
「世界中の子供たちに、ヴィランズを倒すべき悪として描く代わりに”夢と希望”を与え続けてきた我々が今、救うべきなのはヴィランズだ」。思うに、今のディズニーはそう考えているのではないだろうか。
奇しくも2015年現在、ヴィランズが主役として取り上げられた今年のディズニーランド・ハロウィーンは大盛り上がり。全米で公開中のドラマシリーズ『ディセンダント』は、なんとヴィランの子供たち(!)を主役にした作品で、現在大ヒットを記録中だ。
ところで話は急に戻るが、私は決して、サスペリアを時代遅れの差別的なホラー映画だと思っているわけではない。怪物たちを倒したあと、崩れゆく寄宿舎を背に、スージーはほんの一瞬、満足そうな笑みを浮かべる。このシーンは当時から物議を醸し、様々な解釈を呼び話題となった。怪物たちの事情を省みず、害があるという理由で全滅させたスージーが、本作の中で一番の魔女なのかもしれない。この笑顔はそう捉えることもできる。私の見方は、あながち間違っていないのかもしれない。

 

 

※1『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』2012年12月29日TBSラジオより
※2『町山智浩の映画塾!』#112シザーハンズ<復習編>wowwow