夢を望むな、でも夢を忘れるな ~主人公が凡人に戻る映画、イントゥ・ザ・ウッズ~
イントゥ・ザ・ウッズを見てきたので記事を書こうとひさびさはてなアプリを立ち上げました。
ネタバレあんまり気をつけないで書きますね。
まず、オープニングクレジットのいつもと違う暗~~いシンデレラ城、超イイ!
いつものあのシンデレラ城のオープニング映像ありますよね。
ディズニーオープニング Disney op シンデレラ城 - YouTube
きゃ~ステキ! けっこうこれだけでテンション上がります。
でも、イントゥ・ザ・ウッズの始めに見せられるのは、無音の中、暗い緑色の照明の中に沈む、不気味なシンデレラ城。
「この映画はいつものディズニー映画と違いますよ」という製作側の覚悟を感じました。
オープニングに引き続き、この映画は出だしが本当に、本当にイイのです。
皆さん思い出してください。「美女と野獣」のオープニング(朝の風景)。
ベル、街の人々、ガストン、登場人物の1人1人のストーリーが加わって、重なっていくあのワクワク感。
ベル、街の大人たち、ガストンだけでもあんなに楽しいのに、今回はシンデレラ、赤ずきん、ジャック、パン屋夫婦、魔女、総勢6人ですっごい時間をかけてあれをやるのです。
見知ったストーリーの主人公たちの歌が重なって、最後6人になった瞬間の興奮といったら!!!
で、肝心の映画はどうかというと、
まるで「迷走期ディズニー」を見ているかのようでした…w
※迷走期ディズニー:名作「美女と野獣」が絶賛されて以降、「あれ以上の作品はもう作れないよ症候群」にかかってディズニーが迷走しまくっていたと言われている時期。「ヘラクレス」「ノートルダムの鐘」「ラマになった王様」などの珍作を連発している。
結論から言ってしまうと、総評はこんな感じ↓
ざっくりまとめると、敗因は
・森の中の距離感&森と街の距離感が全然わかんない
・歌と歌の間がダレすぎ
ただ物語の骨格がそもそもアンチカタルシスなので「グロ表現」「痛み表現」をちゃんとやれば全て一掃できるほど魅力的になったと思う。やれる場所はいっぱいあったのにわざわざ捨てちゃってる
— 赤木 杏 (@begaaaaa) 2015, 4月 22
まず、距離感表現は致命的だったと思います。
一つの「森」を舞台に各キャラクターの物語が交差していく物語なのに、この監督は距離感の見せ方が上手くなくて、各キャラクターたちが「誰が」「どこで」「何を」してるのかわけがわからないんです。
各物語が交差していくところにこの映画の最大のエンターテイメント性があるのに、これで面白さが半減してしまっています。
歌と歌の間がダレる&歌ってる間の役者さんたちの動きがどうにも「手持ち無沙汰」に見えてしまうのも見ていて若干の気まずさを感じました。……監督のロブ・マーシャルは振り付け師ですが、シカゴと違ってダンスが全くないのも点数を大きく逃してしまっているかもしれません。
でも、でもこれでいいんです。
後半のある衝撃的な展開から、この映画の伝えようとしてるあるテーマがはっきり浮かび上がってきます。
そう、この映画は「アンチ・カタルシス」の形式をとっているんですね。
※アンチ・カタルシス:観客が望んでる展開・・感動する、お涙頂戴にしない演出を取ること
参考:アンチカタルシスとはどういう意味ですか? - 観客が望んでる展開・・感動... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12130477997
この映画は大きく分けて2部構成になっています。前半はシンデレラ、赤ずきん、ジャック、パン屋の夫婦がそれぞれの望みを叶える物語。
後半は、夢を叶えたことによる主人公たちの責任と贖罪の物語。
主人公たちの住む森は、ジャックの豆の木によって下りてきてしまった巨人に破壊し尽くされます。
この破壊の原因となった豆の木が生えてしまった理由もまた上手い。
(巨人が怒ったのは夫の巨人が殺されたからで、
夫の巨人が殺されたのはジャックがハープを盗んだからで、
ジャックがハープを盗んだのは赤ずきんがハープを盗ってきてと言ったからで、
赤ずきんがハープを見たがったのはそもそもジャックが巨人の世界に行ったからで、
ジャックに豆の木の豆を与えたのはパン屋の亭主で、
その豆を植えてしまったのはシンデレラでした)
つまり、全員に原因があるのです。
主人公たちの歌う“悪いのはお前 - Your Fault”では、それぞれが責任を押し付け合い、
そもそも森に行けと言った魔女が悪い!と魔女に詰め寄ります。
この、責任の擦り付け合いからの魔女の開き直りのシーンは最もテーマに切迫するシーンであり、映画最大のハイライトでしょう。
「巨人が来て、みんなぺちゃんこ。どうせみんなぺちゃんこさ」
と魔女は不吉に繰り返します。
自分から必死に願って、それが叶った主人公たちは、その結果お互いに責任を擦り付け合い、最後にはそんな争いも業も関係なくすべてを救う「死」が待っています。あれ? それって、何か最近聞いたことありませんか。 そう、高畑勲『かぐや姫の物語』の世界観と全く同じです。
なんとシビアな映画でしょうか。
「お前たちは“お人よし”だね。悪でも善でもない、“お人よし”。私は魔女、“正しい人”。正しいことをする」
自らの祖先が魔女狩りに関わっていたことに罪悪感を抱えていた1800年代の作家、ナサニエル・ホーソーンは著書“緋文字”の中で、普通の人が魔女と呼ばれる過程を描いています。
夫が死に、未婚の母となった主人公へスタープリンは、同調圧力の強い小さな村の中で“普通”から外れてしまい“魔女”と呼ばれ、晒し者にされました。
- 作者: N.ホーソーン,Nathaniel Hawthorne,八木敏雄
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- 発売日: 1992/12/16
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ディズニー過去作である“ノートルダムの鐘”の中の、ジプシー(=異教徒)であるエスメラルダも、フロローに魔女と呼ばれていました。
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魔女は“みんなと違う人”。それは異教徒や、へスタープリンのように“みんなと同じ”よりも“正しさ”を優先する人です。(魔女狩りの歴史が明白に示すように、中世には常識から外れた順に多くの女性が魔女とされ、殺されました)
以上の意味も含んでいるのか、本作イントゥ・ザ・ウッズの魔女もまた“未婚の母”ですね。
凡人は人のせいにする。
凡人は同調しない人を排除する。
どうでもいい、私のことは好きに言うがいい。
魔女はこう言っているんですね。
そして主人公たちへのこのセリフは紛れもなく正論です。
こうなると、もう誰が正しいのかわかりません。
さて、ではこの映画は、解決策として私たちに何を提示するのでしょうか。
物語もいよいよラストです。
パン屋の亭主、シンデレラ、赤ずきん、ジャックは絶望の淵から、お互いに確かめ合うように歌います。
「私たちは1人じゃない」。
1人じゃないからこそ、物語の中で働いた暴力に責任が発生する。
でも、1人じゃないから力を合わせて巨人を倒せる。
そう、この映画は「主人公が凡人に戻る物語」。
「1人じゃない」というセリフは「凡人だ」と同じ意味です。
作品のテーマは「夢を望むな、でも夢を忘れるな」。
実は物語の中盤からそれは示唆されていたのでした。
ジャックは「雲の上から見下ろす世界、僕の家があんなに小さく見える。その中間に住みたい」と歌っていますし、
シンデレラは「家でいじめられるのは辛い現実、王子との結婚は夢。私はその中間がいい」「でも王子を忘れない」と言っています。
シンデレラは情緒不安定かと思うほど毎晩王子から逃げ出しますが、物語的にはちゃんと意味があったのです。シンデレラは現実と夢の間で迷い、中間を望むという意味が。
王子と浮気し、夢と現実を「両方欲しい」と願ってしまったパン屋の妻は、崖から落ちて死んでしまいます。
死ななければならなかった。この映画では、夢を願った人間(おとぎ話の主人公たち)には試練を、夢と現実両方を願った人間(パン屋の妻)には罰を与えられるのです。
この映画は「おとぎ話の中で主人公が行ったのは暴力です」と言っている。
確かにその通りで、言われてみれば、本作『イントゥ・ザ・ウッズ』で取り上げられたおとぎ話は、みんな主人公たちの自分勝手な願いの末に、どれも犠牲が生まれています。
シンデレラの姉は足を切られ目を潰され、
ジャックは巨人を殺し、
赤ずきんでは狼が死んでいる。
私たち凡人の社会では、殺されても「悪人だから仕方ない」では通りません。
シンデレラをいじめたことと、小鳥に目を啄ばまれてしまうことは何の整合性もありません。オオカミだって生きるために赤ずきんを食べることは悪いことなのか?と聞かれればこれは壮大な問題です。少なくとも、犠牲者を出しておいて主人公はハッピーエバーアフター☆という「ご都合主義」こそ、他者への暴力といえるでしょう。
主人公に対して「君のやったことは横暴だ。どう落とし前をつけてくれるんだ」とシビアに迫るストーリーは、アリスインワンダーランド(2010,ティム・バートン)に近いかもしれません。
その集大成がラストの曲、“子供たちは聴いている - Finale: Children Will Listen”。
主人公たちはテーマの核心部分を歌っています。
「忘れないで。巨人は善人かも、魔女は正しいかも。それはあなたが伝えるの。子供たちは聞いている」
このラストシーンは物語の抱えている原罪を、私たち大人に問うています。
(私が5月4日に発行する新刊『ダメ女子的映画のススメ。』にも書いていますが、「伝え方によって事実が決まってしまう」というのは、デヴィッド・フィンチャー監督“ゴーン・ガール”にも近いものがあります。)
だからこそ、だからこそ本作は「痛み表現」を捨ててしまったのはあまりにも惜しい!
本作が、クラシックディズニーがやらなかった、「痛み」の表現をやっているのは非常に面白いポイントでした。ざっと数えるだけでもかなりあります。
・シンデレラが姉に殴られて ぶっ倒れる。
・ラプンツェルは髪を引っ張られる痛みに顔をしかめます。
・王子は茨に突っ込んで目を潰すし
・なんと死人が2人も出ます(ジャックの母親は頭を打って死に、パン屋の妻は崖から落ちて死ぬ )
おそらく本作はもっともっと痛みをちゃんと痛々しく表現するべきでした。やれるところはいっぱいあったはずなのに、毎回わざわざ捨てちゃってるのです。
髪が千切れるところは全然あっさりしてるし、シンデレラが殴られるところなんかフリだけなので、SEと全然あってなくて違和感ありまくりという、残念な結果に…。
「いや、おとぎ話だからスルーされてるけど、実際やったら超痛いはずだよね?!」と聞き返してくるこの感じは、上にさんざん書いたとおり、この映画のテーマ的にとてもとても大切な要素だったのです。
「痛み表現」、「グロテスク表現」さえちゃんとやれば、この映画は欠点を一掃してあり余る傑作になったはずです。
それをできなかったのは、監督が良しとしなかったのか。それともディズニーの限界なのか。
先ほどこの作品を「暗黒期ディズニーみたいだ」と言いましたが、方向性が定まってない感じがすごく「美女と野獣」後の90年代ディズニーを思わせました。
主義主張がブレブレの映画を乱発してて、でも腐ってもディズニーだから技術は最高だし役者も最高で、それがまるで「腕力はものすごいあるのに闇雲に振り回してるイカレ野郎」の感じでめちゃくちゃ面白かった、と私は思います(すいません)。
本作『イントゥ・ザ・ウッズ』は、ディズニーにできないことを可視化しているようにも思えます。
よく考えれば、いまのディズニーにできないことなんて他にあるでしょうか。
現代ディズニーは、クラシックディズニーが作ってしまった恋愛至上主義からの逃走を「アナと雪の女王」で描いているし、「ムーラン」などに描いてしまった雑なアジアイメージも「ベイマックス」で払拭しています。
「アナと雪の女王」がプリンセスブームが作ってしまった恋愛至上主義への反省を踏まえた「アンチ・プリンセス」なら、
このタイミングでティズニーが「アンチ・カタルシス」である本作を扱ったということはクラシックディズニーが作ってしまった「ご都合主義的物語」の反省を踏まえているのかもしれません。
これが暗黒期なら、ディズニーが過去にアナ雪でそうしたように、次作でまた「すごいディズニー」に化けるのかも。
ベイマックスはあんなに上映してたのに、早くも公開が終わり始めている本作は、もしかしたら興行的には失敗なのかもしれませんが、志はあまりにも立派です。
もしもディズニーがアンチ・カタルシスを、痛み表現を描くようになれば完全無欠になるかもしれません。
一緒に見届けましょう、オススメです!
以上、イントゥ・ザ・ウッズ評でした。
☆☆
5月4日の文学フリマで「ダメ女子的映画のススメ」を発行します。
よろしければぜひ。
公式サイト:ダメ女子映画のススメ