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私は言葉を使っているとき、知りもしない誰かに操られている~イミテーション・ゲーム /エニグマと天才数学者の秘密~

機械と人間の間にほんとうの理解はないから、

人間と人間の間にも、ほんとうの理解はない。

 

 

※ネタバレありです(実話なのでネタバレというか微妙ですが…)

 

最初はサスペンス要素を期待して見に行ったんです。ていうかポスターアートがそれっぽすぎないですか?!

加えて「エニグマ」という言葉の響き(中二心の永遠の憧れ!)もサスペンス感を醸し出しています。

ところがどっこいフタを開けると哲学映画であり、同性愛映画であり、深い深い映画でした……。

 

映画の元になったアラン・チューリングの人生をざっとまとめると、イギリスの数学者で、エニグマ暗号機による暗文を解読する機械「bombe」の開発者。bombeの開発はコンピューターの基礎を築いたと言われ、コンピューターの基礎概念を作ったと言われている。戦後、同性愛の罪により逮捕され(ていうか同性愛=犯罪だったのってほんのン十年前までだったんですね…)、41歳で自殺。

 

  • 正直イマイチな序盤

 

最初は正直言ってノれなかったんです。

というのも、これ事務系の仕事の人は割とみんな思うんじゃないかと思うんですが、普段仕事でエクセルを使ってたりすると、「特定の文字を検索する」とか「検出されるまで総当りで調べる」とか聞くと、どうしても関数やマクロを使って解く方法を考えてしまって、

いや、もちろん彼らがコンピューターの基礎を築いた功績があったから私たちのコンピューターを使う現在があるんだとわかってはいるんだけど、

例えば中盤、暗号化された文字の組み合わせを一つ一つ試す機械を作って喜んでる主人公たちがどうしても「昔の人」な感じがしてしまうのです。

必然的に、身近な問題としてではなく「昔の人の映画なのね」という感想に……。

 

あと、ヒロインがパーフェクトすぎる。

突然表れたクロスワードパズルマニアの一般人であるヒロインは美人で、なぜか天才数学者である主人公よりも有能でさえあります。しかも、その理由が一切語られないし。

ホモセクシュアルの主人公さえ彼女のことが好きになるっていうのも、なんか都合よすぎる気がするし。

採用も「男性ばかりの職場では体裁が悪いです」と一回断るところとか、「私は女よ。嫌われたら終わり」と言いながら誰にでも感じよく接する(でも業務に一切支障なし!そんなことってそう簡単かな?)ところとか、私もフェミニストですが、以上の事情は私たちの親世代のフェミニストたちにさんざん言われてることのせいか、ちょっと説教臭くも感じました。

どうにも女性を描きたいがための記号のような印象を受けてしまいます。いや、記号なら記号でいいんだけど(そういう映画もいっぱいあるし)、「記号」に説教されると、ちょっとなあ。

 

  • 哲学映画の姿を見せ始める中盤

 

以上の理由でちょっと問題ありな序盤ですが、後半の展開から評価がひっくり返されました。

 

だって、よく考えたら皆さん、もうね、「戦中に国を勝利に導いたのに戦後は同性愛のせいで国から攻撃された天才数学者」って、完全にジャンヌ・ダルク的悲劇じゃないですか。製作側は彼を悲劇のヒーローとして描くことがいくらでもできたはずじゃないですか。で、このタイミングでそれをやったら大いに問題になったはずです(アメリカン・スナイパー論争はそろそろ終焉したのだろうか……)

でもこの映画、そうじゃないんですね。

切ないほどドライな視点で、「人間が人間を理解することなんてできない」という結論に落ち着いていくんです。

 

主人公(=チューリング)はエニグマを解読するための機械を「クリストファー」と名づけ、恋人のように可愛がっていました。

「クリストファー」はチューリングが子供のころに片思いしていた男子生徒の名前。

彼が唯一の親友だったチューリングは、クラスメイトである彼と毎日毎日暗号化した手紙をやり取りし、ついに「 I love you 」と書いた手紙を渡す決心までしました。

ところがクリストファーは突然チューリングの前から姿を消します。チューリングは校長から、実はクリストファーは亡くなって、結核で余命いくばくもない体だったことが明かされます。

「唯一の親友を亡くすのは辛かろう」と気遣う校長に対して、結核であることなど彼から一度も知らされなかったことにショックを受けたチューリングは無表情につぶやきます。

「誤解です。彼をよく知りません」。

 

このセリフがこの映画の最もテーマに迫ったものと言えるでしょう。

よく考えるとこのセリフは映画の中の重要なシーンと、いくつもいくつもリンクしています。

 

例えば、生きていたころクリストファーが、初めて数学の本をチューリングに手渡すシーン(0と1が大量に並んでいることから、プログラミングの指南書?)。

クリストファーはクロスワードパズルについて、「ひとつの言葉では当てはまらないから、同じ意味の別の言葉で試す」と説明します。

チューリングは「普通の言葉とどう違うの?」と返します。

チューリングは私たちの普段しているコミュニケーションをこう説明します。「ほんとうの意味と違うのに別の言い方をする。でもみんなが理解する」。

 

これだけだとわかりにくいので、私の解釈をちょっと補足します。

人が人に何かを伝えようとするとき、まず最初に「気持ち」があります。そのままそれをテレパシーできればいいのですができないので、私は「気持ち」を、「言葉」という相手と自分の共通の道具に置き換えます。

相手は私の「言葉」を受け取り、その意味を理解します。

このとき、当然ながら相手は私の「気持ち」を100パーセント理解しているわけではありません。私から「言葉」を受け取った相手は、自身の知識や経験と照らし合わせて「言葉の意味」を解釈し、理解する(あるいは理解したことにする)のです。

「相手」の気持ちなのに、「自分」の中の意味を引っ張って解釈するのですから、当然そこには齟齬が生じます。

しかも「言葉」は、私たちが、チューリングが、クリストファーが生まれるずっと前から、ずっと世界にあったものなのです。私たちが知りもしない誰かが考えたものなのです。私たちは「言葉」を使ってしか気持ちを説明できないし、自分自身のことも理解できないので、私たちはその「言葉」に、自分の気持ちを、自分自身のアイデンティティを当てはめさせられます。

例えば、私だったら「女」という言葉に。「日本人」という言葉に。私が生まれた時点で世界に「女」「日本人」という言葉があったのです。なので私は他人にそう理解され、自分自身もそう理解させられます。

そう、チューリングの場合は「アスペルガー症候群」「同性愛者」という言葉に。

 

最大にわかりやすいのは予告でも使われたチューリングが刑事と対話するシーン。

「教えてくれ、機械は人間と同じように考えることが出来るのか?」と聞かれたチューリングは少し考えてこう答えます。

「質問が変だ。違うふうに考えることは、考えていないことになるのか? 機械は人間と違うふうに考える。だが人間も同じだ。それぞれの脳が違う風に考えて、別々のハードを持つ」

 

一般的に、アスペルガー症候群の人は「機械みたいだ」と人によく言われます。

チューリングは「機械と人間を同列に考えている」のです。チューリングにとっては人ではないもの/コンピューターも、自分ではないもの/他人の脳も「自分とは違うハードを持つもの」であり「理解できなさは一緒」なのです。

フェミニストをはじめ、リベラル派の人たちは「他人とは同化できないしするべきではない」という考えから発想が出発します。

チューリングの思考はなんて平等な思考でしょうか。

非常に現代っぽいと感じます。

 

私の解釈では、この映画はチューリングの人生を、ただヒーローの悲劇的な人生として描かず、彼の生涯を描くことでこう発信しています。

人間がコンピューターを理解できないように、人間は人間を理解できない」。

そこから差別も偏見も起こりうる、ということが、この言葉の意味の一つとして含まれています。

 

「人が人を理解することは出来ない」と彼がわかっていたように、「ついに理解されなかった」同性愛者の彼は、戦後、男性との性行為が国にバレ、男性ホルモンの投与(いわゆる「化学的去勢」)を強制され、41歳のとき自殺。

 

「私がなんとかする」と言うヒロインにチューリングは「私からクリストファーを奪わないでくれ」と泣いて頼みます。「クリストファー」と名づけた解読機を大切に大切に手入れし、「クリストファー」と2人で暮らしていたチューリングは、警察に没収され、壊されることを泣いて拒みます。

久しぶりにヒロインが尋ねたときには、彼は投薬治療によりクロスワードパズルすらできないようになっていました。

 

私自身、昔彼と非常に近い状態に陥ったことがあります。ホルモン系の病気になり入院しているときだったのですが、話そうとすると「言葉」が何も出てこない。言われた「言葉」の意味がつかめない。何か意味を掴み掛けたと思うと忘れる。ずっとどもってる。言葉に出来なければ、私の頭の中で何が起こっているかなんて家族も気づきません。みんなが「バカ」という目で見てきます。

子供のころから書くことだけを生きがいにし続けてきたのです。もう二度と書けないのだろうかと思うと、地面が揺れるような、めまいのような感覚にただただ呆然としていました。

 

だから、最後に字幕で表れる「41歳のときに自ら死を選んだ」の文字に納得しました。私も、もしあのとき治らなかったら彼と同じ道を選んだかもしれません。

 

映画の序盤「昔の人」にしか思えなかったチューリングは、映画の終わりには完全に共感する人物になっていたのでした。

 

もちろん、共感できたのは投薬治療のエピソードだけのおかげではなく、それまでの積み重ねがあってこそ。

すばらしいと思ったのはベネディクト・カンバーバッチの「言葉以外の演技」。

まず、「運動神経悪い演技」が見事(笑)「触るな!」なんて威勢のいいことを言うわりに、ちょっとどつかれただけで倒れちゃう(しかも、上半身が硬直しているw)のは運動神経悪い者としてあるあるでした。

それから、彼の感情が爆発したシーンに何回かある「走る演技」。これはスティーブン・ダルドリー監督の映画「ものすごくうるさくてありえないほど近い」のアスペルガー症候群の少年があふれる感情に耐え切れずブワーッと喋りだすあのすごいシーンを思い出しました。

ラストのみんなで文書を燃やすシーンの笑顔なんて、「言葉に置き換えられないもの」を役者が身体で表しています。

ベネディクト・カンバーバッチお見事。彼の演技は初見でしたが、人気あるのも納得です。

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<余談>

※どうにも、まるでタダシを失ったヒロが兄の優しさを具現化したロボットであるベイマックスを相棒としたことと重ね合わせてしまいます。「科学の前では身体的ハンディもなくなる」という同じ科学者スピリット映画ですが、ベイマックスが「未来と希望」の側面を描いているとして、この映画は「過去と現実」を描いているのかもしれない…とつい対比してしまいます。

 

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