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ごめんなさい、私、"サスペリア"の悪役に哀愁を感じずにいられません! ~サスペリア(1977,伊)とティム・バートンの『シザーハンズ』~

リメイク版の『サスペリア』が話題なので、以前書いた旧作の『サスペリア』についての記事を公開します。

もう40年も前の映画なんですね……

 

 

 

ごめんなさい、私、"サスペリア"の悪役に哀愁を感じずにいられません!
サスペリア(1977,伊)とティム・バートンの『シザーハンズ』~

 

 真夜中、美少女、バレエ学校。大雨の降る中で、ヒロインが寄宿舎に到着すると、見知らぬ少女が何者かに追われているかのように怯え、何か叫んでいる。「秘密のドア、アイリス、青色の……!」。
 なんてステキなオカルト映画だろう。本作"サスペリア"はドイツのバレエ名門校に入学した若い娘が、次々と遭遇する恐怖体験を描いたイタリア映画だ。
 寄宿舎はおとぎ話のように優雅な建物で、全体がヴィヴィッドな赤い壁に、これまたヴィヴィッドな緑の照明。最初の犠牲者の少女が息を引き取るとき、天井から落下したカラフルなステンドグラスがいっせいに割れ、ホールいっぱいに極彩色が飛び散る……。
 シャワールームでまことしやかに囁かれる「魔女伝説」、毎晩確かに聞こえてくるのに「途中で途切れてしまう足音」、増血にとヒロインが飲まされるのは「血のように赤い葡萄酒」。
 細部の一つ一つに、いちいち「オタクごころ」をくすぐられる。色彩やファッションの、丸尾末広の画風のようなヴィジュアルは、平成生まれの私からすると、まるで「昭和レトロお化け屋敷」。今で言う「サブカル」の人がメロメロになりそうな要素が満載だ。
 なんでも、このオカルト全開の怪しい作品は、70年代の日本で大ヒットしたらしい。 
 平成のポップでライトなカルチャーに嫌々ながらも育てられた私からは、この映画が大ヒットしたなんて、一体どういうことなのか、にわかに信じがたい。
 本作のあらすじはこうだ。
 ヒロインのスージーが入学したドイツの名門バレエ学校。そこは、なぜか愛想が悪く、どこか不気味な講師たちが取り仕切る館だった。この講師たちの面々が、ただ立っているだけでオカルト全開で素晴らしい。生徒の前に決して姿を見せない女理事長。代理のマダム・ブランクは目鼻立ちがギョロギョロと際立つ顔立ちで、厳格な主任講師のタナー女史は、見事なまでの魔女顔である。ルーマニア人の下男パブロはあまりにも体が大きくてまるでフランケン・シュタインだし、マダムの甥で9歳になるアルバート少年の、ゾッとするほど青白い顔は、まるで吸血鬼のようだ。本当に、これだけ怪物感のあるメンツを、よくここまで揃えたものだ。
 スージーは、サラと仲良しになり、真夜中の寝室で、2人は壁越しに、どこかへ立ち去っていく奇妙な足音を耳にする。サラはあの呻き声の主が、海外旅行中の理事長ではないかとスージーに告げたが、翌朝、それをタナー女史に尋ねると、冷たい否定が返ってくるのだった。
 この「教えてくれなさ」は現実とリンクしていて、なんとも恐ろしい。私は大学時代に女子寮に入っていたので、スージーとサラの感じた恐怖を、とても自分の近くに感じた。所属している集団に、独特のルールがある感じ。全貌を見せてもらいたくても、すべては教えてもらえない感じ。変だと思うことを口にしても、冷たく返ってくるだけで、「深く考えてはいけない何か」がある感じ、それをみんなで気にしないようにしている感じ。
 わからないことがあると、人は想像で埋めようとする。何も情報がない場合、いっそう不安が掻き立てられて、それは自分の想像しうる最も恐ろしい想像となる。誰も教えてくれないことがあり、それが自分の寝起きする場所についてのことであれば、私たちはそれについて、想像せずにいられない。「わからないことに対する恐怖」、それが私の考える「ホラー」の本質である。
 ある晩、サラは一人、謎の足音を追いかけてベッドを抜け出す。足音は屋根裏に続いており、なんとか気づかれずに忍び込めたものの、そこには誰もいない。彼女は背後から、何者かに鍵を閉められる。窓は高い位置にしかついておらず、部屋には大きな箱が一つ。まるで彼女を誘導するように……。木の箱を踏み台にして、彼女は窓をよじ登るが、落ちた先は罠部屋だった。無数の針金が彼女の体を突き刺し、彼女は絶命する。
 次の日、誰もいない寄宿舎に戻ったスージーはついに意を決して、葡萄酒を捨て、学校の秘密を暴こうとする。足音の数だけ廊下を歩くと、スージーは校長室にたどり着く。そこでスージーははじめての夜の女学生の言葉を思い出す。「アイリスが3つ。青いのを回すのよ……。」
 壁を見ると、アイリスの飾りがあった。青いアイリスを回すと秘密のドアが開く。奥の部屋では講師たちがスージーを呪う儀式をしている。この学院は魔女たちの館であり、バレエ教室はもともと魔女の儀式の踊りから派生したものだったのだ! そこには長老のエレナ・マルコス(溜息の母)がカーテン越しのベッドにいた。スージーはガラス製の孔雀の置物の羽根を取って、マルコスの喉を突き刺す。彼女の死とともに館が崩れはじめる。激しい雨のなか、スージーは一人、館から逃げ出した。
 ……以上が本作のあらすじであるが、私の感想を正直に言う。バカなことを言うかもしれないけれど、皆さん、どうか、ちょっと想像してみてほしい。
 秘密のドアが開き、講師たちがスージーを呪う儀式をしているシーン。このシーンで、私は本作をとても真面目に見れなくなった。だって、あんな広い部屋の中で、なぜそんな狭いところに集まってるの!? 絵面がだいぶシュールなのに、講師たちは"キメ顔"で、みんな一斉にこっちを見ている。私にはこのシーンが、みんなで一生懸命カメラに映ろうとしているようにしか思えないのだ。
 そう考えると、全てのシーンが反転して、講師たちサイドの事情が想像されて仕方がない。
 サラが針金の部屋の罠にかかる恐ろしいシーン。ここは閉じ込められたサラがちょうど踏み台にするための木箱に気づくように出来ている。まるで「ピタゴラスイッチ」のように。冷静に考えると、これは講師たちが設計して設営したということであり、みんなで集まって模造紙を広げて和気あいあいと話し合う様子が浮かんでしまう。「どうするどうする?」とはしゃぐ魔女たち、という情けない光景が。文化祭か。
 ルーマニア人のパブロは一番下っ端らしいので、ホームセンターとかに車で資材を買いに行かされたかもしれない。大きな体で、顔が不気味なこの男は、絶対に店員に覚えられるに違いなく「あの人また来たわよ」とか小声で言われていそうである。
 この学院は魔女たちの館であり、バレエ教室はもともと魔女の儀式の踊りから派生したものだったのだ! という真相が明かされる瞬間も、「わあ怖い!」とはとてもならず、経営難でその方向に舵を切ったのかな……そのときも会議したんだろうな……と思うと、なんか、応援してあげたい。
 なぜ? 私の持った感想は、恐らく意図されたであろうものと、なぜこんなにも違うのか。私には怪物たちが不憫に思えて仕方ない。彼らが何をしたと言うのか。確かに人間にとって恐ろしいかもしれないが、彼らだってそうしないと生きられない。彼らだって知力を駆使して人間文化に溶け込んでいるのだ。生き残るためにホームセンターに通い、経営難を乗り越えて。
 私と、これを恐怖として受け止めた70年代の若者の間にある、徹底的な差とは何か。私はすぐに答えに思い至った。ティム・バートンのせいだ。
 90年代、ティムバートンはオカルト映画に革命的な映画を次々発表しまくった。子供のころから絵の上手い少年で、ウォルト・ディズニーカンパニーにアニメーターとして働いていた彼は、途中から、ディズニーの空気と合わなくて精神的におかしくなってしまう(※1)。今となっては、それは至って無理もないことだったのだろう。明るく平和的なウォルトディズニーの作風と、彼の資質は違いすぎた。
 フランケンウィニー1984年)、シザーハンズ(1991年)、ナイトメアービフォアクリスマス(1993年)、コープスブライド(2005年)……。彼の作品はどれも『怪物たち』に親しみを覚え、怖いながらも可愛く思える作品ばかりだ。なぜ、彼はこれまで恐怖の対象としてだけ描かれていた怪物たちを、不憫で、報われなくて、愛しくてたまらない生き物として描き続けたのか。その答えは彼の子ども時代にある。
 『シザーハンズ』の主人公、エドワードは手がすべて刃物でできていて、不器用で、喋ることができないけれど、手に付いたハサミで色んな植木を切ったり、切り紙や彫刻をして一生懸命自分を表現する。真っ白な顔とボサボサの髪、その上指が全部刃物などという不気味な見た目に、最初は怖がっていた街の人々も、彼の作品での表現を通じて交流することができ、次第に彼を受け入れていく。
 「これはティム・バートン自身がそうで、というのも、学校でレポートを出せって言われたときにどうしても作ることが出来なかったんですね、彼は。言葉があんまり得意じゃないから。で、彼は、絵を描いたり、映画を作ったりすることで自己表現をして。で、そのまま大きくなって映画を撮り続けてるという人なんですよ」と、映画評論家の町山智浩さんは話す。
 「この映画は、最初は可愛い話で、彼はみんなと仲良くなるんだけども、結局彼は受け入れられずに、街の人たちはだんだんだんだんストレンジャー(異者)として彼を追い詰めていくと。これは、フランケンシュタイン(1931年,米)のラストと全く同じです」。
 怪物物語の名作、フランケンシュタインは、読む前には怖い怖いイメージがあるが、話を実際見てみると、人間によって作られた怪物が、人間によって勝手に差別されていく、悲しい悲しい話である。ティムバートンは子供のころ、こういう映画ばっかり見ていた。
 「子供のころって、何考えて過ごしてたの?」と聞いた町山智浩さんに、ティム・バートンは語った。「自分が怪物なんだと感じていた。周りに誰も似たような人がいなかった。みんなは俺のことを気持ち悪いと思ってるんだ。いつか、何かが起こったときに俺は真っ先に疑われて、殺されるかもしれない、そんな恐怖をずっと抱いてた」。彼が育ったのはパステル調の家々が並ぶ、親子で休日は楽しくキャッチボールをするような1940年代の郊外で、これはもちろんシザーハンズエドワードが差別される街のモデルである。
 彼は自分自身を投影しながら、不気味だけどど心は純粋で、不器用な存在として、怪物たちを描き続けた。
 彼の映画は大ヒットした。90年代次々と発表されたティム・バートンによる作品群は、世界の人々の「オカルト映画感」をまるごと変えた。そうして私のような、サスペリアの悪役の扱いに戸惑いしか感じない若者世代が誕生した。
 彼を脱退させた後のウォルト・ディズニーカンパニーも、会社の作風と全く方向性の違うティム・バートンの作品に、なぜか次々と予算を与え、怪物映画を作らせ続けた。「なんでディズニーは前例もないような作品を、次々製作させてくれたのは俺にも全然わからないから聞かないでくれ!」と言うのは、他でもないティム・バートン自身の語るところ(※1)。
 実は私には、なんとなく思い当たる節がある。「手が全部刃物で出来ているから美しいものを作れるけど、そのせいで人を傷つけてしまう」シザーハンズ? それってエルサ(『アナと雪の女王』2014,米)の氷の力と全く同じではないか!
 ディズニーが『アナと雪の女王』の製作に取り掛かったとき、雪の女王エルサは元々ヴィラン(悪役)として設定された。ところが製作の真っ只中、"マイノリティとしての力を爆発させてしまおう"というメッセージを描いたあの名曲『Let it go』がいい歌すぎて、スタッフは急遽設定を大改編した。エルサを、迫害された心を持った、救うべきもう一人のヒロインに。
 「世界中の子供たちに、ヴィランズを倒すべき悪として描く代わりに”夢と希望”を与え続けてきた我々が今、救うべきなのはヴィランズだ」。思うに、今のディズニーはそう考えているのではないだろうか。
 奇しくも2015年現在、ヴィランズが主役として取り上げられた今年のディズニーランド・ハロウィーンは大盛り上がり。全米で公開中のドラマシリーズ『ディセンダント』は、なんとヴィランの子供たち(!)を主役にした作品で、現在大ヒットを記録中だ。
 ところで話は急に戻るが、私は決して、サスペリアを時代遅れの差別的なホラー映画だと思っているわけではない。怪物たちを倒したあと、崩れゆく寄宿舎を背に、スージーはほんの一瞬、満足そうな笑みを浮かべる。このシーンは当時から物議を醸し、様々な解釈を呼び話題となった。怪物たちの事情を省みず、害があるという理由で全滅させたスージーが、本作の中で一番の魔女なのかもしれない。この笑顔はそう捉えることもできる。私の見方は、あながち間違っていないのかもしれない。

 

 

※1『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』2012年12月29日TBSラジオより
※2『町山智浩の映画塾!』#112シザーハンズ<復習編>wowwow

 

 

女の子に求められる「シンデレラ、かつスーパーガール」

トイストーリー4において、羊飼いのボー・ピープが戦う女の子にさせられたことが賛否両論ですね。

 

 

 

遡ること9年前、私が『トイストーリー3』公開時にこの作品に戦うヒロインとして登場するバービーについて書いた批評があったので、これを期に公開しようと思います。

ディズニーの「バービーと現代の女性に求められる『完璧な女の子』像」への危機感を書いています。

 

バービーガール、パーフェクトガール

 

 トイ・ストーリー2と3を通してみると、“バービー”のキャラクターの豹変っぷりに驚く。

 監督のコメンタリー(※)によると、そもそもトイ・ストーリーは当初誰もヒットを予想しなかった作品で、版権キャラクターの出演許可を取るのにかなり難航したらしい。

 トイ・ストーリー1の段階でバービー出演の権利が取れず(ちなみにこのとき代わりに作られたキャラクターがボー・ピープだ)、映画の主要キャラたちをおもちゃ屋に置かせてもらうのも難色を示されていたらしい。しかしこの“トイ・ストーリー”が思わぬ大ヒット作となり、次々とコラボ許可も下りた。

 バービー出演の許可が下りたトイ・ストーリー2では、玩具屋さんを舞台にたくさんのバービーが出てくるが、そこに描かれる彼女たちは没個性で、ポールダンスやビーチバレーをして楽しむ、“黄色い声”を上げる女の子たちだ。唯一ポテトヘッドたちと行動を共にするバービーも、職業はツアーガイドで女性の職業だった。

 トイ・ストーリー3でのバービーの話にいく前に、「バービー」そのものについての話に少し触れておこう。

 Aquaというデンマークのポップスグループがある。2000年にヒットした“Babie girl”という曲は、バービー人形の販売元であるマテル社を激怒させたという逸話を持つ。その歌詞はこうだ。

 私はバービーガール バービーの世界に住んでるの

 私の命はプラスチック ファンタスティックでしょ

 私の髪を梳かして 私の服を脱がせて

 想像してみて 命をあなたが創造するの(妊娠させてもいいよ)

 AQUA -『Barbie Girl』1997年、ユニバーサルミュージック (筆者訳)

 ここからわかるように、バービーは「可愛くて頭カラッポな女の子」の象徴となっている(最近だと、2013年5月にドイツでフェミニスト団体が『バービーハウス』の前で抗議した件も話題になったのを覚えている人も多いだろう)。

 1959年に登場して以来爆発的なヒット商品となったバービー人形は、アメリカの女の子たちの自意識と切っても切れない関係にあり続け、それゆえにその歴史は常にフェミニストと共にあった。

 “Babie girl”の歌詞中で最も問題なのは『Imagination, life is your creation』の部分であろう。妊娠を暗喩するこの表現を、しかし筆者は違った意味で解釈している。

 私の考えではこうだ。「想像して、私にそれを投影して」。

 私の人生はあなたの想像通りというその言葉通り、バービー人形は女の子に遊ばれる人形として、想像して、投影される宿命を持った存在だからだ。それは女の子が大人になったとき、恋愛において「理想の相手を投影される」こととなって反転される。“Babie girl”はそのほぼ躁状態的な快感とその恐ろしさを歌った曲のように思える。

  『人形への関心の中にはよく言われる母性本能などよりずっと多量に、女のナルシズムとサディズムが投影されているように思われる』(※)と言ったのは吉原幸子だが、1959年にバービーが発売される前、女の子のおもちゃといえば“将来お母さんになるための練習用”としての赤ちゃん人形しか与えられていなかった(ちなみに少子化対策にこの赤ちゃん人形をキャンペーンとして導入したのが、かの“テディ・ベア”の名称の元にもなったセオドア・ルーズベルト大統領である)。

 今では想像しにくいが、バービー人形が登場したとき、お買い物♥男の子♥に夢中になるこのバービーは、むしろフェミニストによって支持された。彼女たちの母親世代は1940年代に主婦として家事に明け暮れた世代。映画で言うと、めぐりあう時間たち(2003,米)のローラ、ビッグアイス(2014,米)のマーガレットの時代である。家庭に縛り付けられ、仕事は持てず、ビッグ・アイズのマーガレットは自分の名前で絵が出せず、セックスがどうしても苦痛なローラは自殺未遂。この女性たちを未来の自分の姿として目に映してきた少女たちからすれば、なるほど恋愛と消費を自由に楽しむバービーはフェミニスト的だったのも頷ける。

 さて、トイ・ストーリー2から10年の時を経て、3でのバービーはどんなキャラクターになったのか。

 敵であるケンを出し抜くため、彼をおだて、泣きマネをし、変装し、ウッディだちを勝利に導くバービーは、まるで峰不二子だ。さらに、保育園を取り仕切る邪悪な支配者・ロッツォに対してバービーは、絶体絶命のピンチにも関わらずキッと睨んでこう言うのだ。「権力は脅しではなく、統治される者の同意から生まれるべきだわ!」(ちなみにこのセリフを提案したのは脚本家のマイケル・アーント。あの名作『リトル・ミス・サンシャイン』の脚本家である)。

 バービーはトイ・ストーリー3にこのように描かれたことにより、今後このイメージを固定していくだろう。大げさに聞こえた人は、トイ・ストーリーシリーズにおいてピクサーがCG技術と魅力的なアニメーションによってどれだけおもちゃに命を吹き込んだかを考えていただきたい。例えば、ポテトヘッド夫妻。彼らは映画オリジナルキャラクターではなく市場にもともといたキャラクターであるが、彼らが店頭に並んでいる際、ミスターポテトヘッドは皮肉屋のオンナ好きな中年男で、ミセス・ポテトヘッドはおしゃべりで世話好きな中年女性というイメージ以外、もはや想像できるだろうか。スリンキーに至っても同様である。

 トイ・ストーリーという映画によって、バービー人形はややこしい過去のノータリン女のイメージを脱ぎ捨て、新しいイメージに乗ることができた。賢くて勇敢でしかも可愛い、あまりにもパーフェクトなイメージを。そのイメージは、偶然か必然か、まるで新世代の女の子の理想を表しているかのようである。そう、現代の女の子の憧れは、「明るくて可愛くてバカ」でこそなくなったが、「賢くて勇敢ならブスでもいい」にはならなかった。

 2012年、ペギー・オレンスタインは著書『プリンセス願望は危険がいっぱい』の中でこう指摘している。

 「今や女の子たちは、すべてを持つだけでなく、すべてであらねばならないと感じている。シンデレラかつスーパーガールというわけだ」。

1※トイ・ストーリー3DVD音声解説/ リー・アンクリッチ(監督)、ダーラ・アンダーソン(製作)

2※吉原幸子『人形嫌い』思想社、1982年

3※オレンスタイン,P.著/日向 やよい訳『プリンセス願望には危険がいっぱい』2012年10月26日

 

ーー転載ここまでーー

ダメ女子的映画のススメ。は文学フリマで配布しているフェミ映画批評本です。書籍は架空ストアでも購入可能です(現在売り切れですが近日入荷します)。気に入ってくれた方はよろしくお願いします。

t.co

増田セバスチャンの「あっちとこっち展」に行ってきました~「怖カワイイ」アーティストが描く死の世界~

2016年1月23日(土)~1月31日(日)にTOBICHI②さんで開催されていた、

"増田セバスチャンの「あっちとこっち」展-Knockin' on Heaven's Door-"

に行ってきました。もう終わってしまったんですね…早く書けばよかった…

 

不勉強ながら増田セバスチャンというアーティストを全く知らず、長野から来た友人から誘われて行ってきました。

友人から聞いたところによると、きゃりーぱみゅぱみゅのPVの美術担当もしている人なんだとか。あの世界観はこの人によって作られているのか…すごい人なんですね。

残念ながら終わってしまった企画こちら↓

www.1101.com

 

 

以下感想です。

 

表参道のA4出口からTOBICHIまでテクテクと歩くのですが、この通りってプラダがあるわ、ミュウミュウがあるわ、ディオールがあるわ、本当にブランド街なんですね……

Gパンにへそ出しなどで来てしまった私は萎縮して歩きました。あとこの日寒かった。極寒て言われてたのに。なんでへそ出しで来たのか。

反省①:服は着る

(※書き終わってみたところ、②はありませんでした)

 

 

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そんなブランド街は一本通りを曲がるだけで突然古風な住宅街に変化します。

TOBICHIはそんなブランド街と住宅街の中間にありました。見た目のこの「中間」感もすごい!

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先ほどのハイブランドの並びにビビリまくっていたのですが、本展示は有難いことに無料とのこと。

一軒家を改装した感じの作りなのですが、なんと暗幕で仕切られており、中が全く見られません。パイプ椅子が並べられていて、お客さんたちが歯医者さんのように座って待っていました。

この時点でかなりびっくり。

 

黒い暗幕で仕切られた中では、何が起こっているのか全く分かりませんが映画「サウンドオブミュージック」のメインテーマのなんだかカワイイ感じのバージョンが流れてきます。怖い!

 

壁の注意書きには

・お一人ずつお入りください

・時間制限は3分です

・靴を脱いでお入りください

・ブランコは重量制限100キロです

 

……もちろん「ブランコ」を二度見。

先に入っていった友人の背中に「無事で戻って来いよ!」と心の中で言う。

 

なんだか3分経って係のお姉さんに呼ばれる。

無料で来ているのが申し訳なくなるぐらいお姉さんの対応が親切です。とりあえず友人は食われなかったらしい。

 

で、中に入ったらこれ

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「墓なんですね?!」とデカい声を出してしまったら、「そうです。だから『あっちとこっち展』なんです」と答えてくれたお姉さん。なぜかちょっと嬉しそう。

で、件のブランコ。

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揺れる揺れる。

白いわ木製だわ見た目可愛く見えるのに、座った瞬間ものすごく、ぐわっと揺れます。

S字フックだから?!

可愛いものに溢れた部屋の中で豪快に揺られて墓を見つめる私…マジ死の世界。

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付近はこんな感じ。

 

椅子に揺られながら、私は「あんまり来慣れてない親戚の家に来てる」感じがしました。

 

決して文句を言っているわけではないのですが、この感じは私の考える「死の世界」とはだいぶ違うので、

これは増田セバスチャンさんの考える死の世界で、私の考える死の世界にいるわけではない。

「誰かの考えた死の世界を、体験させられている」、その居心地の悪さ。それがつまり「本当の(でも今思うと本当のってなんだ?)死の世界を体験しているわけではない」という安心感にも繋がります。

 

そんな中で、最も異物感があったのは片隅に溶け込んでいたこれ

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脳漿をぶちまけている熊さん。

 

これがなければ「誰かの考える死の世界を体験してきたわ~」で済んだと思うのですが、

この熊さんのために痛烈に印象付けられました。

 

全体的にこの部屋は「増田セバスチャンさんの考える死の世界なのかな~」と思っていたのですが、

その中で、この熊さんだけが唯一「具体的な死者のイメージ」なのですね。

そうなるとこの部屋に表現されたものの意味がまるごと変わってくると思います。

この部屋は「増田セバスチャンさんの」あるいは「私の」あるいは「みんなの」「死の世界」ではなく、

「この熊さんの」死の世界、としてしか考えられません。

 

それにしては……

オモチャのピストルに頭を打ちぬかれ、毛玉の脳ミソを散らして、口から血を流している(あるいは、舌を伸ばしている?)熊さんは、

実際の「死」を前にするとずいぶん浮いている印象を受けました。

なにしろ目の前には本物の墓があるのです。

全然会ったことはないけれど、そこには、この近くに生きてこの近くで亡くなった方が実際に眠っており、きっと何年回に一度は家族の方がお墓参りに来ているはずなのです。

そう考えると、突然この作品が若干「本物の死者に対して、不真面目」な印象を受けました。

 

 

思い出したのは、去年訪れたデザインフェスタ

言わずと知れた、ビッグサイトで行われるプロアマ問わず参加できるアートとデザインの祭典ですが、

そこでは若い参加者さんを中心に、カラフルだけど死をイメージさせるような、「怖カワイイ」作品がものすごーく多く出品されていました。

この手の作品は、きゃりーぱみゅぱみゅが出てくる前はもっと少なかった気がします。

きっと増田セバスチャンさんは一大センセーションを巻き起こしたのですね。

 

しかし、私は増田セバスチャンさんや、「怖カワイイ」作品を作るアーティストさんたちが、死を軽視しているとか不謹慎だとか思っているわけではないのです。

なぜなら、このアーティストさんたちが作品の中で描いている「死」は、抽象的な、概念としての「死」であると思うからです。

それは全然、不謹慎でも不真面目でもありません。

しかしそういった作品たちが、今回の『あっちとこっち展』のように、実際の死(=墓地)を目の前に作られ、出し物にされた機会はそれまでなかったと思います。

 

「『怖カワイイ』は、ホンモノの死と実際に並べてみると、けっこう不謹慎だね」

 

増田セバスチャンさんは、そう言うために本作を作られたのでしょうか?

とにかく、今回の展示で、私はそのことを初めて思い至りました。

 

 

 

11月23日(月祝)文学フリマ出典情報

11月23日文学フリマ出典情報をお知らせします。

 

①私たち(マゾヒスティック・リリィ・ワークス)のブースは『オ-08』、

エッセイ随筆ブースだよ。

「ダメ女子的映画読本」を発行します。

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ダメ女子によるダメ女子のための映画読本第2段。
今回の特集は「年代別ダメ女子を探せ!」「サイコ女子特集」
「輝かない青春映画特集~ダメなあいつを思い出せ~」など。
「引きこもり系映画すごろく」付録つき。

詳しくはWEBサイトをご覧ください。

ダメ女子的映画読本

 

 

②Shiny Booksさん(ブース:オ47-48)の『アヴァンギャルドでいこうvol.4』さんに文章を書いてます。

テーマが「リアリティ」ということで、「セックス恐怖症モノ映画」を中心に、

レズビアンセックスについて赤裸々に書きました。引かないでね!

Shiny Books | Born to be avant-garde.

 

 

③前回発行した『ダメ女子的映画のススメ』は今回増刷なしです。通販はやってるよ!(https://store.retro-biz.com/page_detail_4020.html#i11440


 

みなさんに当日お会いできるのを楽しみにしています。ぜひお話しましょう!

9/20(日)文学フリマにて【ダメ女子的アニメのススメ】を発行します

今度はアニメ!

ダメ女子的アニメのススメ

 

読むだけで女子力が下がる!
ダメ女子のダメ女子のためのコラム企画、第二弾。

前回の“ダメ女子映画のススメ”を読んでくださった皆さん、お待たせいたしました。そして初めての方、慎んで殴らせていただきます。

立ち上がれ、ダメ女ども!

 


目次


百合ブームの分析と男女逆転少年漫画“キルラキル”
赤木 杏
『キルラキル』 (2013,日)
少女革命ウテナ』 (1997,日)

「ヒロイン≠視聴者」論、前代未聞の癒し系アニメ“繰繰れ!コックリさん”
赤木杏
『繰繰れ! コックリさん』 (2011,日)

存在とは愛である
美生
輪るピングドラム』 (2011,日)

兵器アニメ"ヨルムンガンド"に見る女たちのシゴト論
赤木 杏
ヨルムンガンド』 (2012,日)

「カワイイ・ルール」をぶち壊せ“スティーブン・ユニバース”
赤木杏
『スティーブン・ユニバース』 (2013,米)

 


MORE(予定のため、予告なく変更される場合がございます)


ジャンル  ノンフィクション|エッセイ・随筆 F-14
サイズ   A5/オンデマンド(予定)
ページ数  32P
タイトル   「ダメ女子的アニメのススメ」
著者    赤木杏、他ゲスト
発行日   2015/09/20 文学フリマ大阪
価格    350円(予定)

 

詳しくはHPをご覧ください

 

あ! 当日は売り子さんと2人でまったりしてるので、

どうぞお気軽にお声かけくださいね

世にも不思議な『ドレス映画』だった実写版『シンデレラ』~スケープゴートにされた継母と、労働者表現が若干子供に有害な気もする話~

 

ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品。

 

 

シンデレラ オリジナル・サウンドトラック (2CD)

 

見てきました。今思うと、この時点(↑)で完全にドレスと靴を見せるためのポスターでしたね…。

見終わった後、「この映画をどう捉えたらいいんだ・・・」としばらく頭を抱えていました。

強いて言うなら、本作は世にも不思議な「ドレス映画」です。

 

●「ディズニープリンセス」なるものの与えた影響

 

まず、何を言っても最初に語らねばならないのはシンデレラのこの「青いドレス」でしょう。

シンデレラのこの「青いドレス」と、「ディズニープリンセス」にはちょっと複雑な関係があります。

(ごめんなさい、私、これからちょっとディズニーファンのあなたには当たり前のことを言うかもしれません。もしそういう方がいたら次の改行まで読み飛ばしてくださいね。)

まず、今回の実写版のシンデレラのドレスを見てみてください。そうです、青ですね。

次に、1950年代版の、ウォルト・ディズニーが手がけた元祖シンデレラのドレスを調べてみてください。そうです、白です。

今調べてくれた方の中には、シンデレラのドレスはアニメ版からもともと青だと思ってた人いませんでしたか? 大丈夫、あなたに罪はありません。その理由をちょっくらお話します。

 それは「ディズニー映画」と「キャラクターグッズ」の因縁のお話です。

 

今ではすっかり定着したましたが、実は、2000年ごろまでは、「ディズニープリンセス」なるものは存在しませんでした。映画作品としての「白雪姫」が、「眠れる森の美女」が、「シンデレラ」が、それぞれ別個に存在しているだけでした。

コンシューマー・プロダクツは1990年代後半ごろから経営難にあえいでいました。この時代は、この前お話した"ディズニー迷走期"ですね。

ディズニー迷走期についてはこの前の記事、イントゥザウッズ評をご参照ください。

 

 

annnnnn.hatenablog.com

 

 

ディズニープリンセス」という概念を作り出し、グッズとして大成功させ、コンシューマープロダクツを救ったのはアンディ・ムーニーという男でした。

ある日のこと、ディズニー・オン・アイスに視察に出かけたムーニーは、客席の小さい女の子たちのほとんどが着ているプリンセス・ドレスに目をつけます。それらは母親たちの涙ぐましい努力による手作り品で、それを見たムーニーはこれをグッズ化したら絶対に売れる! と確信します。さっそくムーニーは、社内で「プリンセス」と呼ばれるブランドを企画。

ただし、ロイ・ディズニーなどの古株は、別々の作品のプリンセスたちを一緒くたにして販売することについて大反対でした。

ただし、彼らも経営難には逆らえない。ゴーサインを出す代わりにロイの出した条件は、「同じ絵の中に存在しても、プリンセス同士が絶対に目を合わせないこと」でした。(だから、プリンセスグッズを見てみると、どのグッズもプリンセスたちはまるでお互いの存在に気づいていないかのように別々の方向を向いています。ぜひ見てみてください)

 

かくして生まれた「プリンセス」なるブランドは、現在のこのディズニーストアの、玩具売り場の、イオンの文房具屋の、イトーヨーカドーの机売り場の状況が表すとおり、大大大ヒットとなったわけです。

 

グッズが売れると映画も作れる、映画が売れるとグッズも売れる。

プリンセス映画全体を相対化(反省?)した作品「魔法にかけられて」「アナと雪の女王」などを作り、

ディズニーは「暗黒期」を抜け出し、復活していきます。

 

ディズニーの復活に関しては、もちろんピクサーから引き抜かれたトップ、ジョン・ラセターの功績が大きいでしょうが、「プリンセス」ブランドのヒットも影響を相当に影響を与えたはずです。

 

ディズニーはプリンセスのイメージが白人像に固まるのを避けるため、「プリンセス」を打ち出すにあたり人種・年齢・立場のさまざまな11人のプリンセスたちを「プリンセス」として位置づけています。

(ちなみに白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、アリエル、ベル、ジャスミンポカホンタス、ファ・ムーラン、ティアナ、ラプンツェルメリダの11人です)

 

そこには、「年齢も人種も地位も関係ない。誰もがプリンセスだ」というディズニー側の先進的な主張があったのです。

にもかかわらず悲しいことに、せっかくプリンセスに含めたけれど、アジア系の女性であるムーランや、民族衣装に身を包んだポカホンタスよりも、世界中の女の子たちにとって、プリンセスとは「中身」よりも「ドレス」でした。

女の子たちに常に人気があるのは、 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人で、せっかくバラエティにとんだメンバーをセレクトした11人のプリンセスだけれども、この3人がほとんどのグッズで真ん中を占めています。

 

本作の監督のケネス・ブラナーは、そんな「女の子のプリンセスに対するときめきの主成分=ドレス」を、よくわかっているようでした。

監督は映画内で、やりすぎなほどにドレスを見せつけていました。

思えば、予告編の映像も「ドレス」並びに「変身シーン」を最大に売りにしていましたね。

靴のシーンと、ターンしつつの衣替えシーン、

最大の見せ場である変身シーンのあと、上記のダンスパーティのシーンでも、色とりどりのドレスの中で、ちょっと不自然なほどに

「ヒラッ」、「ヒラッ」と、裾を揺らす振り付けで中のパニエを見せています。

 

主は地味に大学のころ競技ダンスをしていたのですが、宮廷舞踊や、ワルツなどのモダンダンスでは「そんなに裾を動かさないよ・・・・」とかなりの違和感を持ってしまったので、これらは映画のための演出と思われます。

主演のリリー・ジェームズはダンスの指導をきちんと受けていないとしか思えません。比較的長尺なダンスシーンで、真ん中で大写しになって踊るのに、慣れない動き、王子との息の合っていなさ、それでもけなげに笑顔だけは絶やさない彼女が見ていてどんどん可愛そうになってしまい、

見ていて「どうしてこんなに気まずい思いをしなきゃいけないんだ!」と叫びだしたくなりました。

もしかして、「ダンスが未経験ならではの初々しさと喜びの表情をメインに撮りたかった」のかも知れません、いやきっとそうなのでしょう。だけどそれにしても尺が長すぎて、そのせいで「初々しさ」を「気まずさ」が上回るのです。

それに、映画冒頭で「姉たちは意地悪で、もちろん芸術の才能もありませんでした」として姉たちの酷いピアノと歌のシーンが出てくるのですが、「シンデレラ、お前もたいがいだよ!……なんでもない、ごめん…私たちも優しさと勇気を忘れちゃダメだよね…」みたいな気分になります。

(ちょっと話が逸れますが。シャルル・ペロー版の「シンデレラ」が愛読された18世紀ごろ、身分の高い女性は仕事が持てず、身分の高い男性の妻になるしかありませんでした。よって、女性にとって「芸術の才能(社交界で歌を歌って客人を楽しませるため)」はなくてはならないものでした。姉たちのひどい歌、あのシーンは単なるギャグシーンではなく、「芸術の才能が無い=レディではない女性」という差別意識であり、原作のディズニーが持つ「毒」の部分です。

あとで書きますが、本作実写版「シンデレラ」は原作の持つ差別意識をなくそうとした色々な試みが見られます。そんな志があったのですから、ついでにこのシーンを再考すべきだったように思います)

 

 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人のグッズが大ヒットする中で、シンデレラのドレスは、いつの間にか白から青になっていきます。理由は公式にはわかっていませんが、おそらくグッズとしての収まりのよさ、3人で並んだときの色的なメリハリをつけるためでしょう。

 

有名な話ですが、ウォルト・ディズニーが最も好きなシーンは映画『シンデレラ』の変身シーンでした。

シンデレラの初の実写化で、公開されたポスターアートが「青のドレス」だったときの私たちのざわめきの理由、ご理解いただけましたでしょうか・・・・

いくらプリンセスグッズが大ヒットしたとはいえ、それまでグッズブランドと映画作品の間には一線が引かれておりました。

つまり本作『シンデレラ』は、「ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品と言えるでしょう。

 

 

●どこに行くんだディズニーの自己反省意識

 

しかし、私のような人間が本作にグチグチ言っているのはただ単にディズニーオタクだからであって、映画的に見れば本作がこのドレス可愛いでしょ!とヒラヒラやっている分には、無邪気な映画として何の罪も無いはずです。

それに、ドレスの色を変えたのだって、ここ最近のディズニーが「魔法にかけられて」「アナと雪の女王」「イントゥ・ザ・ウッズ」などの作品でこれまでに作ったイメージやメッセージを破壊して再構築する「ディズニー自己革命」の流れのひとつとも言えるでしょう。

 

ただ、この映画がなかなかそうはいかないのは、「無邪気」で片付けられないところがあるからなのです。

 

●「労働者」の描き方に表れる無邪気な無神経さ

あんまり言うのもどうかと思うのですが、数箇所、無邪気な無神経さを感じたのは「労働者」の表現です。

今回のシンデレラではPC(※ポリティカル・コレクト:政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2015/04/26 23:56 UTC 版))に配慮してか、家臣の1人の重要なポジションにアフリカ系アメリカ人の俳優さんを入れてるのですが(ノンソー・アノジーという俳優さんです)、家臣に彼がいて、王族サイドは白人が揃ってることが、かえって違和感になっている気がしました。

というのも、シンデレラという作品には、これは今回の映画化の罪ではないのですが、原作からちょっと問題があって、カボチャ馬車を引く従者や馬子などの「労働者」に化けるのは、ネズミやガチョウなどの「動物」なんです……。

今回はそれを実写で人間がやってることによって、さらに画的な問題が可視化されちゃってる気がしていたたまれませんでした。

(ちなみに、ネズミ→馬、カメレオン→馬子、ガチョウ→御者に、それぞれ変身します)

近代以前の文学に描かれる世界には、階級が違うと同じ生き物ではない、という意識はけっこう強いです。私たちからすると意外なことですが、その意識を持つ持たざるは善人悪人にわりと関係ありません。例えば、「舞姫」のエリスの扱いの酷さは有名ですが、あのゲーテですらグレーテヒェンの扱いがあまりにひどいし、ゲーテ本人も「素晴らしい。彼は妻を鞭打ったその手で妻を撫でるのだ!」とか、「人類皆平等」を教わってきた私たちからすると「えっ、そもそも鞭打つなよ?!」と思うようなことを平気で言ったりします。(ゲーテはドイツですが、18世紀のイギリスの慣習法では、妻は夫の動産であって、夫は妻に対する“身体的制裁権”が認められており、夫の親指の太さ以下であれば棒やムチで叩いてよいとされていたのは有名な話です)

シャルル・ペローの原作の描かれた17世紀の階級意識が表れているシーンな気がして、ここは興味深いシーンです。

言わずもがな、家臣にアフリカン・アメリカンの俳優さんを入れるなら、ここのシーンも変えないと前後関係がとれてないと言えるでしょう。

 

それから、この映画は他にも「労働者」に対して首を傾げる表現があって、

それは例の国中がガラスの靴を試すシーン。シンデレラが落としていった靴にピッタリ合う足を捜して国中の娘を試すシーンですね。

人で賑わう営業中のパン屋の中に大尉たちが入っていって、パン屋で働く中年女性がガラスの靴を試すのですが、女の足が臭くてみんなが倒れるってギャグシーンがあるのです。

いや、私のように、ディズニー映画を俯瞰してみてるようなクズが、どう言ったっていいのです。ただ、映画の前半、めげずに働くシンデレラに共感しながら見ていた人ほどここにきてあれ……? と首を傾げることでしょう。「恋愛至上主義」、「女性の自立を妨げる」とフェミニストや教育者たちにさんざん叩かれてきたディズニー。その点を克服し「アナ雪」で復活したディズニー。

そのディズニーの『シンデレラ』の再解釈ですから、「本作のシンデレラが尊いのは王子様と結婚できたから」という着地点では絶対にいけないはずです。ましてや「生まれが高貴だったから王子に選ばれた」でも。

シンデレラが尊いのは「メイドのように扱われても、優しさと希望を捨てずに働いたから」であって、「労働は尊い」ってメッセージを発しているのに、足は臭いのはダメってこと? と、少なくとも私はここにきて大いに混乱しました。
「働く人の足が臭いのはカッコ悪い」って、その価値観て、後に書きますが「継母サイドの高貴な人」のものでは?

 

まあ、ここはあまり深く突っ込まず、さらっと流すべきギャグシーンかもしれません。

しかし、この作品の矛盾はこれだけでは終わりません。そしてその違和感が最高潮に達するのは、もはや本作の主役とも言える、ケイト・ブランシェット演じる継母の描き方でしょう。 

 

 

ケイト・ブランシェットが良さすぎたから文句も多い「母親」描写

 

ケイト・ブランシェット。ああ、ケイト・ブランシェット。最近女性との交際もカミングアウトした、サイコーにクールな我等が姉御。

画面を圧倒する存在感で、彼女が登場したシーンには思わず笑ってしまいましたw

やり過ぎなほど間を取って、スクリーンが足元、後姿と順に彼女を大きく映し出し、つばの広すぎるドデカイ帽子の影から、チラリと目を覗かせるあの登場シーンは、ハリウッド版「ゴジラ」が登場したあのシーンばりに「よっ!!」と掛け声を入れたくなります(笑)

 

この映画は彼女が魅力的過ぎるという意味でも、全体的にもったいなさすぎるのです。

非常にもったいないことに、本作はこの継母を徹底して「心の貧しい可哀想な人」として描きます。

アニメ版シンデレラの継母のように徹底して記号的に描かれるなら全然違和感なかったのですが、あれを実写で本当の人間が生身の身体でやっちゃうと、私たちはどうしても「その人の背景」を想像してしまいます。とりわけ、ケイト・ブランシェット演じる継母は、昔は「勇気と優しさ」を持った人だったように思えてなりません。

本作にて説明される彼女の背景は、高貴な身分の女性であり、2度も夫に死なれた未亡人であり、娘を2人抱えています。しかも、王子のセリフから、戦時中であることが示されます。

先ほどもちらりと書きましたが、17~18世紀の身分の高い女性は仕事を持つことができませんでした。結婚できなければ、ガヴァネスと呼ばれる教師になるか、売春婦になるかの二択だったというのですから、とんでもない時代です。

(当時の女性の生きづらさを描いた有名な作品に、シャーロット・ブロンテのジェーン・エアトーマス・ハーディのダーヴァウィル家のテスなどがあります)

 

シンデレラが父の死を知らされたシーンでは、父を想って悲しむシンデレラと裏腹に、「身の破滅よ!」と自分と娘の身を案じて血相を変えるシーンがあり、シンデレラの他人を思いやる優しさと強さとの対比になっていますが、

いかんせん私たちは大人として、継母の反応だって、彼女の境遇を想像したら当然すぎるように思えてなりません。

 

悲劇の根源は継母ではなく、当時の女性の自由があまりにも制限されていたことです。

必死に生きようとした継母とシンデレラに、若さ以外の何の差があるでしょうか。

継母はシンデレラのように王子様並びに安定した金持ちと結婚できなくて、しかも路頭に迷ったりする女性が実際に多くいる中で、生きるために「優しさと勇気」を失った人であって、シンデレラだって歳をとれば継母のようになる可能性も充分あったはずです。

だからあの映画は、豊かさが保証されていなくても優しさと勇気を失わない方法を、シンデレラはたとえ王子様と結婚できなくても失わずに済んだことを、説得力をもって提示できなくてはいけなかったと思います。

 

●でも「フローズンフィーバー」はよかった

 

ご存知の方も多いと思いますが、本作にはアナ雪の続編「アナと雪の女王/エルサのサプライズ」というおまけがついています。

いや、もう、文句なしによかったです。あの終わり方からして、続編を作るのは難しかったでしょうに、軽い話のようでいて映画の後日のあの3人(+オラフ)のその後の関係を想像させる、いい続編だったと思います。

アナとエルサとクリストフの関係は、なんだか江國香織の「きらきらひかる」を思い出させますね。「きらきらひかる」に描かれたのは同性愛者のカップルと体裁上結婚したその妻の友情でしたが、同性愛者に限らずマイノリティが互いを侵さず共存する道を温かく示しているように感じられて、ちょっと泣けます。

 

だから前座のアナ雪の尊い姉妹を見せられたあとで、本編の義理の姉2人、アナスタシアとドリゼラの「ライバルだからって石で頭をカチ割ったりしないわ」「ライバルだからって馬車から突き落としたりしないわ」「だって姉妹だもの」のやり取りに若干モヤっと来ましたが……こっちは前座のアナ雪から「性差別を生き抜くにはシスターフッドだ」ってメッセージを受け取って余韻に浸ってるところなのに、そこ意味もなくまぜっかえさないでよ!

どうやら書き出したらキリがありませんのでこの辺で打ち止めにしておきます。

 

どうしちゃったのディズニー。ベイマックスの中のフェアーな人種感はどこにいっちゃったの。コケたとはいえ、イントゥ・ザ・ウッズのあの怖いもの知らずの心意気は。

随所に挟まれるギャグのゆる~いノリからこの映画が「子供向け」なことは伝わってきますが、子供向けだからこそ、ポリティカルコレクトに関してはちゃんと作らないといけないのではないでしょうか。

 

いや、読み直してみたら、なんだか文句ばっかりで、自分で書いててびっくりしました。信じがたいかもしれませんが、私は個人的には、この映画ぜんぜん嫌いじゃないんです。

恋愛至上主義」「女性の自立を妨げる」として叩かれがちなディズニーですが、

本作には最近のディズニーにはない魅力があります。

それはディズニーで育った私たちだけが知っている内緒の魅力。ディズニークラシックは女の心の拘束具、身を滅ぼしかねない嗜好品。

用法要領を守って浸る分にはサイコーに可愛くて、去勢された女の快感に酔える、クレイジーでクールな映画です。

アニメという虚構性の強い媒体ならまだ気になりませんが、半笑いで独り言と歌ばかり歌うシンデレラは実写で大人が生身の身体で演じるとホントに狂人で、「She is  the MAD ! 」と姉達に言われるのもよかったです。

母の形見のドレスを破かれ、ついに心が折れた彼女が見た、フェアリーゴッドマザーが出てきてからの映像は過剰なほどにキラキラのゴテゴテで、「もしかしてついに狂っちゃったシンデレラの妄想では…?」と穿った見方をするのも楽しい。

 そんなわけでこの作品はある意味究極の「大人向け」映画です。

 

 

 

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(公式サイト)

 

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(↑のページは前回のものです) 

 

 

【出典】

プリンセスグッズについてこちらを参考にしています

 

プリンセス願望には危険がいっぱい

プリンセス願望には危険がいっぱい

 

 

 

第20回文学フリマ東京(0評/5購入)

5/6(月・祝)の文学フリマにて購入した本を一覧にしています。

感想は追って更新していきます。

 

オ-57〜58 ,Shiny Books/アヴァンギャルドでいこうvol.3

ウ-45,mai/CLUB NAKED

オ-59,001203mm/

F-20,にゃんしー /ポエムの墓

F-19,湖ゆり 泉由良/ゆりとゆら vol.1

 

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