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映画コラムと小説を書いています。ダメ女子によるダメ女子のための映画本『ダメ女子的映画のススメ』通販中です。右のリンクよりどうぞ。

増田セバスチャンの「あっちとこっち展」に行ってきました~「怖カワイイ」アーティストが描く死の世界~

2016年1月23日(土)~1月31日(日)にTOBICHI②さんで開催されていた、

"増田セバスチャンの「あっちとこっち」展-Knockin' on Heaven's Door-"

に行ってきました。もう終わってしまったんですね…早く書けばよかった…

 

不勉強ながら増田セバスチャンというアーティストを全く知らず、長野から来た友人から誘われて行ってきました。

友人から聞いたところによると、きゃりーぱみゅぱみゅのPVの美術担当もしている人なんだとか。あの世界観はこの人によって作られているのか…すごい人なんですね。

残念ながら終わってしまった企画こちら↓

www.1101.com

 

 

以下感想です。

 

表参道のA4出口からTOBICHIまでテクテクと歩くのですが、この通りってプラダがあるわ、ミュウミュウがあるわ、ディオールがあるわ、本当にブランド街なんですね……

Gパンにへそ出しなどで来てしまった私は萎縮して歩きました。あとこの日寒かった。極寒て言われてたのに。なんでへそ出しで来たのか。

反省①:服は着る

(※書き終わってみたところ、②はありませんでした)

 

 

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そんなブランド街は一本通りを曲がるだけで突然古風な住宅街に変化します。

TOBICHIはそんなブランド街と住宅街の中間にありました。見た目のこの「中間」感もすごい!

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先ほどのハイブランドの並びにビビリまくっていたのですが、本展示は有難いことに無料とのこと。

一軒家を改装した感じの作りなのですが、なんと暗幕で仕切られており、中が全く見られません。パイプ椅子が並べられていて、お客さんたちが歯医者さんのように座って待っていました。

この時点でかなりびっくり。

 

黒い暗幕で仕切られた中では、何が起こっているのか全く分かりませんが映画「サウンドオブミュージック」のメインテーマのなんだかカワイイ感じのバージョンが流れてきます。怖い!

 

壁の注意書きには

・お一人ずつお入りください

・時間制限は3分です

・靴を脱いでお入りください

・ブランコは重量制限100キロです

 

……もちろん「ブランコ」を二度見。

先に入っていった友人の背中に「無事で戻って来いよ!」と心の中で言う。

 

なんだか3分経って係のお姉さんに呼ばれる。

無料で来ているのが申し訳なくなるぐらいお姉さんの対応が親切です。とりあえず友人は食われなかったらしい。

 

で、中に入ったらこれ

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「墓なんですね?!」とデカい声を出してしまったら、「そうです。だから『あっちとこっち展』なんです」と答えてくれたお姉さん。なぜかちょっと嬉しそう。

で、件のブランコ。

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揺れる揺れる。

白いわ木製だわ見た目可愛く見えるのに、座った瞬間ものすごく、ぐわっと揺れます。

S字フックだから?!

可愛いものに溢れた部屋の中で豪快に揺られて墓を見つめる私…マジ死の世界。

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付近はこんな感じ。

 

椅子に揺られながら、私は「あんまり来慣れてない親戚の家に来てる」感じがしました。

 

決して文句を言っているわけではないのですが、この感じは私の考える「死の世界」とはだいぶ違うので、

これは増田セバスチャンさんの考える死の世界で、私の考える死の世界にいるわけではない。

「誰かの考えた死の世界を、体験させられている」、その居心地の悪さ。それがつまり「本当の(でも今思うと本当のってなんだ?)死の世界を体験しているわけではない」という安心感にも繋がります。

 

そんな中で、最も異物感があったのは片隅に溶け込んでいたこれ

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脳漿をぶちまけている熊さん。

 

これがなければ「誰かの考える死の世界を体験してきたわ~」で済んだと思うのですが、

この熊さんのために痛烈に印象付けられました。

 

全体的にこの部屋は「増田セバスチャンさんの考える死の世界なのかな~」と思っていたのですが、

その中で、この熊さんだけが唯一「具体的な死者のイメージ」なのですね。

そうなるとこの部屋に表現されたものの意味がまるごと変わってくると思います。

この部屋は「増田セバスチャンさんの」あるいは「私の」あるいは「みんなの」「死の世界」ではなく、

「この熊さんの」死の世界、としてしか考えられません。

 

それにしては……

オモチャのピストルに頭を打ちぬかれ、毛玉の脳ミソを散らして、口から血を流している(あるいは、舌を伸ばしている?)熊さんは、

実際の「死」を前にするとずいぶん浮いている印象を受けました。

なにしろ目の前には本物の墓があるのです。

全然会ったことはないけれど、そこには、この近くに生きてこの近くで亡くなった方が実際に眠っており、きっと何年回に一度は家族の方がお墓参りに来ているはずなのです。

そう考えると、突然この作品が若干「本物の死者に対して、不真面目」な印象を受けました。

 

 

思い出したのは、去年訪れたデザインフェスタ

言わずと知れた、ビッグサイトで行われるプロアマ問わず参加できるアートとデザインの祭典ですが、

そこでは若い参加者さんを中心に、カラフルだけど死をイメージさせるような、「怖カワイイ」作品がものすごーく多く出品されていました。

この手の作品は、きゃりーぱみゅぱみゅが出てくる前はもっと少なかった気がします。

きっと増田セバスチャンさんは一大センセーションを巻き起こしたのですね。

 

しかし、私は増田セバスチャンさんや、「怖カワイイ」作品を作るアーティストさんたちが、死を軽視しているとか不謹慎だとか思っているわけではないのです。

なぜなら、このアーティストさんたちが作品の中で描いている「死」は、抽象的な、概念としての「死」であると思うからです。

それは全然、不謹慎でも不真面目でもありません。

しかしそういった作品たちが、今回の『あっちとこっち展』のように、実際の死(=墓地)を目の前に作られ、出し物にされた機会はそれまでなかったと思います。

 

「『怖カワイイ』は、ホンモノの死と実際に並べてみると、けっこう不謹慎だね」

 

増田セバスチャンさんは、そう言うために本作を作られたのでしょうか?

とにかく、今回の展示で、私はそのことを初めて思い至りました。

 

 

 

11月23日(月祝)文学フリマ出典情報

11月23日文学フリマ出典情報をお知らせします。

 

①私たち(マゾヒスティック・リリィ・ワークス)のブースは『オ-08』、

エッセイ随筆ブースだよ。

「ダメ女子的映画読本」を発行します。

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ダメ女子によるダメ女子のための映画読本第2段。
今回の特集は「年代別ダメ女子を探せ!」「サイコ女子特集」
「輝かない青春映画特集~ダメなあいつを思い出せ~」など。
「引きこもり系映画すごろく」付録つき。

詳しくはWEBサイトをご覧ください。

ダメ女子的映画読本

 

 

②Shiny Booksさん(ブース:オ47-48)の『アヴァンギャルドでいこうvol.4』さんに文章を書いてます。

テーマが「リアリティ」ということで、「セックス恐怖症モノ映画」を中心に、

レズビアンセックスについて赤裸々に書きました。引かないでね!

Shiny Books | Born to be avant-garde.

 

 

③前回発行した『ダメ女子的映画のススメ』は今回増刷なしです。通販はやってるよ!(https://store.retro-biz.com/page_detail_4020.html#i11440


 

みなさんに当日お会いできるのを楽しみにしています。ぜひお話しましょう!

9/20(日)文学フリマにて【ダメ女子的アニメのススメ】を発行します

今度はアニメ!

ダメ女子的アニメのススメ

 

読むだけで女子力が下がる!
ダメ女子のダメ女子のためのコラム企画、第二弾。

前回の“ダメ女子映画のススメ”を読んでくださった皆さん、お待たせいたしました。そして初めての方、慎んで殴らせていただきます。

立ち上がれ、ダメ女ども!

 


目次


百合ブームの分析と男女逆転少年漫画“キルラキル”
赤木 杏
『キルラキル』 (2013,日)
少女革命ウテナ』 (1997,日)

「ヒロイン≠視聴者」論、前代未聞の癒し系アニメ“繰繰れ!コックリさん”
赤木杏
『繰繰れ! コックリさん』 (2011,日)

存在とは愛である
美生
輪るピングドラム』 (2011,日)

兵器アニメ"ヨルムンガンド"に見る女たちのシゴト論
赤木 杏
ヨルムンガンド』 (2012,日)

「カワイイ・ルール」をぶち壊せ“スティーブン・ユニバース”
赤木杏
『スティーブン・ユニバース』 (2013,米)

 


MORE(予定のため、予告なく変更される場合がございます)


ジャンル  ノンフィクション|エッセイ・随筆 F-14
サイズ   A5/オンデマンド(予定)
ページ数  32P
タイトル   「ダメ女子的アニメのススメ」
著者    赤木杏、他ゲスト
発行日   2015/09/20 文学フリマ大阪
価格    350円(予定)

 

詳しくはHPをご覧ください

 

あ! 当日は売り子さんと2人でまったりしてるので、

どうぞお気軽にお声かけくださいね

世にも不思議な『ドレス映画』だった実写版『シンデレラ』~スケープゴートにされた継母と、労働者表現が若干子供に有害な気もする話~

 

ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品。

 

 

シンデレラ オリジナル・サウンドトラック (2CD)

 

見てきました。今思うと、この時点(↑)で完全にドレスと靴を見せるためのポスターでしたね…。

見終わった後、「この映画をどう捉えたらいいんだ・・・」としばらく頭を抱えていました。

強いて言うなら、本作は世にも不思議な「ドレス映画」です。

 

●「ディズニープリンセス」なるものの与えた影響

 

まず、何を言っても最初に語らねばならないのはシンデレラのこの「青いドレス」でしょう。

シンデレラのこの「青いドレス」と、「ディズニープリンセス」にはちょっと複雑な関係があります。

(ごめんなさい、私、これからちょっとディズニーファンのあなたには当たり前のことを言うかもしれません。もしそういう方がいたら次の改行まで読み飛ばしてくださいね。)

まず、今回の実写版のシンデレラのドレスを見てみてください。そうです、青ですね。

次に、1950年代版の、ウォルト・ディズニーが手がけた元祖シンデレラのドレスを調べてみてください。そうです、白です。

今調べてくれた方の中には、シンデレラのドレスはアニメ版からもともと青だと思ってた人いませんでしたか? 大丈夫、あなたに罪はありません。その理由をちょっくらお話します。

 それは「ディズニー映画」と「キャラクターグッズ」の因縁のお話です。

 

今ではすっかり定着したましたが、実は、2000年ごろまでは、「ディズニープリンセス」なるものは存在しませんでした。映画作品としての「白雪姫」が、「眠れる森の美女」が、「シンデレラ」が、それぞれ別個に存在しているだけでした。

コンシューマー・プロダクツは1990年代後半ごろから経営難にあえいでいました。この時代は、この前お話した"ディズニー迷走期"ですね。

ディズニー迷走期についてはこの前の記事、イントゥザウッズ評をご参照ください。

 

 

annnnnn.hatenablog.com

 

 

ディズニープリンセス」という概念を作り出し、グッズとして大成功させ、コンシューマープロダクツを救ったのはアンディ・ムーニーという男でした。

ある日のこと、ディズニー・オン・アイスに視察に出かけたムーニーは、客席の小さい女の子たちのほとんどが着ているプリンセス・ドレスに目をつけます。それらは母親たちの涙ぐましい努力による手作り品で、それを見たムーニーはこれをグッズ化したら絶対に売れる! と確信します。さっそくムーニーは、社内で「プリンセス」と呼ばれるブランドを企画。

ただし、ロイ・ディズニーなどの古株は、別々の作品のプリンセスたちを一緒くたにして販売することについて大反対でした。

ただし、彼らも経営難には逆らえない。ゴーサインを出す代わりにロイの出した条件は、「同じ絵の中に存在しても、プリンセス同士が絶対に目を合わせないこと」でした。(だから、プリンセスグッズを見てみると、どのグッズもプリンセスたちはまるでお互いの存在に気づいていないかのように別々の方向を向いています。ぜひ見てみてください)

 

かくして生まれた「プリンセス」なるブランドは、現在のこのディズニーストアの、玩具売り場の、イオンの文房具屋の、イトーヨーカドーの机売り場の状況が表すとおり、大大大ヒットとなったわけです。

 

グッズが売れると映画も作れる、映画が売れるとグッズも売れる。

プリンセス映画全体を相対化(反省?)した作品「魔法にかけられて」「アナと雪の女王」などを作り、

ディズニーは「暗黒期」を抜け出し、復活していきます。

 

ディズニーの復活に関しては、もちろんピクサーから引き抜かれたトップ、ジョン・ラセターの功績が大きいでしょうが、「プリンセス」ブランドのヒットも影響を相当に影響を与えたはずです。

 

ディズニーはプリンセスのイメージが白人像に固まるのを避けるため、「プリンセス」を打ち出すにあたり人種・年齢・立場のさまざまな11人のプリンセスたちを「プリンセス」として位置づけています。

(ちなみに白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、アリエル、ベル、ジャスミンポカホンタス、ファ・ムーラン、ティアナ、ラプンツェルメリダの11人です)

 

そこには、「年齢も人種も地位も関係ない。誰もがプリンセスだ」というディズニー側の先進的な主張があったのです。

にもかかわらず悲しいことに、せっかくプリンセスに含めたけれど、アジア系の女性であるムーランや、民族衣装に身を包んだポカホンタスよりも、世界中の女の子たちにとって、プリンセスとは「中身」よりも「ドレス」でした。

女の子たちに常に人気があるのは、 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人で、せっかくバラエティにとんだメンバーをセレクトした11人のプリンセスだけれども、この3人がほとんどのグッズで真ん中を占めています。

 

本作の監督のケネス・ブラナーは、そんな「女の子のプリンセスに対するときめきの主成分=ドレス」を、よくわかっているようでした。

監督は映画内で、やりすぎなほどにドレスを見せつけていました。

思えば、予告編の映像も「ドレス」並びに「変身シーン」を最大に売りにしていましたね。

靴のシーンと、ターンしつつの衣替えシーン、

最大の見せ場である変身シーンのあと、上記のダンスパーティのシーンでも、色とりどりのドレスの中で、ちょっと不自然なほどに

「ヒラッ」、「ヒラッ」と、裾を揺らす振り付けで中のパニエを見せています。

 

主は地味に大学のころ競技ダンスをしていたのですが、宮廷舞踊や、ワルツなどのモダンダンスでは「そんなに裾を動かさないよ・・・・」とかなりの違和感を持ってしまったので、これらは映画のための演出と思われます。

主演のリリー・ジェームズはダンスの指導をきちんと受けていないとしか思えません。比較的長尺なダンスシーンで、真ん中で大写しになって踊るのに、慣れない動き、王子との息の合っていなさ、それでもけなげに笑顔だけは絶やさない彼女が見ていてどんどん可愛そうになってしまい、

見ていて「どうしてこんなに気まずい思いをしなきゃいけないんだ!」と叫びだしたくなりました。

もしかして、「ダンスが未経験ならではの初々しさと喜びの表情をメインに撮りたかった」のかも知れません、いやきっとそうなのでしょう。だけどそれにしても尺が長すぎて、そのせいで「初々しさ」を「気まずさ」が上回るのです。

それに、映画冒頭で「姉たちは意地悪で、もちろん芸術の才能もありませんでした」として姉たちの酷いピアノと歌のシーンが出てくるのですが、「シンデレラ、お前もたいがいだよ!……なんでもない、ごめん…私たちも優しさと勇気を忘れちゃダメだよね…」みたいな気分になります。

(ちょっと話が逸れますが。シャルル・ペロー版の「シンデレラ」が愛読された18世紀ごろ、身分の高い女性は仕事が持てず、身分の高い男性の妻になるしかありませんでした。よって、女性にとって「芸術の才能(社交界で歌を歌って客人を楽しませるため)」はなくてはならないものでした。姉たちのひどい歌、あのシーンは単なるギャグシーンではなく、「芸術の才能が無い=レディではない女性」という差別意識であり、原作のディズニーが持つ「毒」の部分です。

あとで書きますが、本作実写版「シンデレラ」は原作の持つ差別意識をなくそうとした色々な試みが見られます。そんな志があったのですから、ついでにこのシーンを再考すべきだったように思います)

 

 パステルカラーのふんわり広がるドレスが綺麗なシンデレラ、オーロラ、ベルの3人のグッズが大ヒットする中で、シンデレラのドレスは、いつの間にか白から青になっていきます。理由は公式にはわかっていませんが、おそらくグッズとしての収まりのよさ、3人で並んだときの色的なメリハリをつけるためでしょう。

 

有名な話ですが、ウォルト・ディズニーが最も好きなシーンは映画『シンデレラ』の変身シーンでした。

シンデレラの初の実写化で、公開されたポスターアートが「青のドレス」だったときの私たちのざわめきの理由、ご理解いただけましたでしょうか・・・・

いくらプリンセスグッズが大ヒットしたとはいえ、それまでグッズブランドと映画作品の間には一線が引かれておりました。

つまり本作『シンデレラ』は、「ディズニープリンセス」というキャラクターグッズブランドがついに映画作品にまで影響を与えてしまった、ある意味歴史的な作品と言えるでしょう。

 

 

●どこに行くんだディズニーの自己反省意識

 

しかし、私のような人間が本作にグチグチ言っているのはただ単にディズニーオタクだからであって、映画的に見れば本作がこのドレス可愛いでしょ!とヒラヒラやっている分には、無邪気な映画として何の罪も無いはずです。

それに、ドレスの色を変えたのだって、ここ最近のディズニーが「魔法にかけられて」「アナと雪の女王」「イントゥ・ザ・ウッズ」などの作品でこれまでに作ったイメージやメッセージを破壊して再構築する「ディズニー自己革命」の流れのひとつとも言えるでしょう。

 

ただ、この映画がなかなかそうはいかないのは、「無邪気」で片付けられないところがあるからなのです。

 

●「労働者」の描き方に表れる無邪気な無神経さ

あんまり言うのもどうかと思うのですが、数箇所、無邪気な無神経さを感じたのは「労働者」の表現です。

今回のシンデレラではPC(※ポリティカル・コレクト:政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (2015/04/26 23:56 UTC 版))に配慮してか、家臣の1人の重要なポジションにアフリカ系アメリカ人の俳優さんを入れてるのですが(ノンソー・アノジーという俳優さんです)、家臣に彼がいて、王族サイドは白人が揃ってることが、かえって違和感になっている気がしました。

というのも、シンデレラという作品には、これは今回の映画化の罪ではないのですが、原作からちょっと問題があって、カボチャ馬車を引く従者や馬子などの「労働者」に化けるのは、ネズミやガチョウなどの「動物」なんです……。

今回はそれを実写で人間がやってることによって、さらに画的な問題が可視化されちゃってる気がしていたたまれませんでした。

(ちなみに、ネズミ→馬、カメレオン→馬子、ガチョウ→御者に、それぞれ変身します)

近代以前の文学に描かれる世界には、階級が違うと同じ生き物ではない、という意識はけっこう強いです。私たちからすると意外なことですが、その意識を持つ持たざるは善人悪人にわりと関係ありません。例えば、「舞姫」のエリスの扱いの酷さは有名ですが、あのゲーテですらグレーテヒェンの扱いがあまりにひどいし、ゲーテ本人も「素晴らしい。彼は妻を鞭打ったその手で妻を撫でるのだ!」とか、「人類皆平等」を教わってきた私たちからすると「えっ、そもそも鞭打つなよ?!」と思うようなことを平気で言ったりします。(ゲーテはドイツですが、18世紀のイギリスの慣習法では、妻は夫の動産であって、夫は妻に対する“身体的制裁権”が認められており、夫の親指の太さ以下であれば棒やムチで叩いてよいとされていたのは有名な話です)

シャルル・ペローの原作の描かれた17世紀の階級意識が表れているシーンな気がして、ここは興味深いシーンです。

言わずもがな、家臣にアフリカン・アメリカンの俳優さんを入れるなら、ここのシーンも変えないと前後関係がとれてないと言えるでしょう。

 

それから、この映画は他にも「労働者」に対して首を傾げる表現があって、

それは例の国中がガラスの靴を試すシーン。シンデレラが落としていった靴にピッタリ合う足を捜して国中の娘を試すシーンですね。

人で賑わう営業中のパン屋の中に大尉たちが入っていって、パン屋で働く中年女性がガラスの靴を試すのですが、女の足が臭くてみんなが倒れるってギャグシーンがあるのです。

いや、私のように、ディズニー映画を俯瞰してみてるようなクズが、どう言ったっていいのです。ただ、映画の前半、めげずに働くシンデレラに共感しながら見ていた人ほどここにきてあれ……? と首を傾げることでしょう。「恋愛至上主義」、「女性の自立を妨げる」とフェミニストや教育者たちにさんざん叩かれてきたディズニー。その点を克服し「アナ雪」で復活したディズニー。

そのディズニーの『シンデレラ』の再解釈ですから、「本作のシンデレラが尊いのは王子様と結婚できたから」という着地点では絶対にいけないはずです。ましてや「生まれが高貴だったから王子に選ばれた」でも。

シンデレラが尊いのは「メイドのように扱われても、優しさと希望を捨てずに働いたから」であって、「労働は尊い」ってメッセージを発しているのに、足は臭いのはダメってこと? と、少なくとも私はここにきて大いに混乱しました。
「働く人の足が臭いのはカッコ悪い」って、その価値観て、後に書きますが「継母サイドの高貴な人」のものでは?

 

まあ、ここはあまり深く突っ込まず、さらっと流すべきギャグシーンかもしれません。

しかし、この作品の矛盾はこれだけでは終わりません。そしてその違和感が最高潮に達するのは、もはや本作の主役とも言える、ケイト・ブランシェット演じる継母の描き方でしょう。 

 

 

ケイト・ブランシェットが良さすぎたから文句も多い「母親」描写

 

ケイト・ブランシェット。ああ、ケイト・ブランシェット。最近女性との交際もカミングアウトした、サイコーにクールな我等が姉御。

画面を圧倒する存在感で、彼女が登場したシーンには思わず笑ってしまいましたw

やり過ぎなほど間を取って、スクリーンが足元、後姿と順に彼女を大きく映し出し、つばの広すぎるドデカイ帽子の影から、チラリと目を覗かせるあの登場シーンは、ハリウッド版「ゴジラ」が登場したあのシーンばりに「よっ!!」と掛け声を入れたくなります(笑)

 

この映画は彼女が魅力的過ぎるという意味でも、全体的にもったいなさすぎるのです。

非常にもったいないことに、本作はこの継母を徹底して「心の貧しい可哀想な人」として描きます。

アニメ版シンデレラの継母のように徹底して記号的に描かれるなら全然違和感なかったのですが、あれを実写で本当の人間が生身の身体でやっちゃうと、私たちはどうしても「その人の背景」を想像してしまいます。とりわけ、ケイト・ブランシェット演じる継母は、昔は「勇気と優しさ」を持った人だったように思えてなりません。

本作にて説明される彼女の背景は、高貴な身分の女性であり、2度も夫に死なれた未亡人であり、娘を2人抱えています。しかも、王子のセリフから、戦時中であることが示されます。

先ほどもちらりと書きましたが、17~18世紀の身分の高い女性は仕事を持つことができませんでした。結婚できなければ、ガヴァネスと呼ばれる教師になるか、売春婦になるかの二択だったというのですから、とんでもない時代です。

(当時の女性の生きづらさを描いた有名な作品に、シャーロット・ブロンテのジェーン・エアトーマス・ハーディのダーヴァウィル家のテスなどがあります)

 

シンデレラが父の死を知らされたシーンでは、父を想って悲しむシンデレラと裏腹に、「身の破滅よ!」と自分と娘の身を案じて血相を変えるシーンがあり、シンデレラの他人を思いやる優しさと強さとの対比になっていますが、

いかんせん私たちは大人として、継母の反応だって、彼女の境遇を想像したら当然すぎるように思えてなりません。

 

悲劇の根源は継母ではなく、当時の女性の自由があまりにも制限されていたことです。

必死に生きようとした継母とシンデレラに、若さ以外の何の差があるでしょうか。

継母はシンデレラのように王子様並びに安定した金持ちと結婚できなくて、しかも路頭に迷ったりする女性が実際に多くいる中で、生きるために「優しさと勇気」を失った人であって、シンデレラだって歳をとれば継母のようになる可能性も充分あったはずです。

だからあの映画は、豊かさが保証されていなくても優しさと勇気を失わない方法を、シンデレラはたとえ王子様と結婚できなくても失わずに済んだことを、説得力をもって提示できなくてはいけなかったと思います。

 

●でも「フローズンフィーバー」はよかった

 

ご存知の方も多いと思いますが、本作にはアナ雪の続編「アナと雪の女王/エルサのサプライズ」というおまけがついています。

いや、もう、文句なしによかったです。あの終わり方からして、続編を作るのは難しかったでしょうに、軽い話のようでいて映画の後日のあの3人(+オラフ)のその後の関係を想像させる、いい続編だったと思います。

アナとエルサとクリストフの関係は、なんだか江國香織の「きらきらひかる」を思い出させますね。「きらきらひかる」に描かれたのは同性愛者のカップルと体裁上結婚したその妻の友情でしたが、同性愛者に限らずマイノリティが互いを侵さず共存する道を温かく示しているように感じられて、ちょっと泣けます。

 

だから前座のアナ雪の尊い姉妹を見せられたあとで、本編の義理の姉2人、アナスタシアとドリゼラの「ライバルだからって石で頭をカチ割ったりしないわ」「ライバルだからって馬車から突き落としたりしないわ」「だって姉妹だもの」のやり取りに若干モヤっと来ましたが……こっちは前座のアナ雪から「性差別を生き抜くにはシスターフッドだ」ってメッセージを受け取って余韻に浸ってるところなのに、そこ意味もなくまぜっかえさないでよ!

どうやら書き出したらキリがありませんのでこの辺で打ち止めにしておきます。

 

どうしちゃったのディズニー。ベイマックスの中のフェアーな人種感はどこにいっちゃったの。コケたとはいえ、イントゥ・ザ・ウッズのあの怖いもの知らずの心意気は。

随所に挟まれるギャグのゆる~いノリからこの映画が「子供向け」なことは伝わってきますが、子供向けだからこそ、ポリティカルコレクトに関してはちゃんと作らないといけないのではないでしょうか。

 

いや、読み直してみたら、なんだか文句ばっかりで、自分で書いててびっくりしました。信じがたいかもしれませんが、私は個人的には、この映画ぜんぜん嫌いじゃないんです。

恋愛至上主義」「女性の自立を妨げる」として叩かれがちなディズニーですが、

本作には最近のディズニーにはない魅力があります。

それはディズニーで育った私たちだけが知っている内緒の魅力。ディズニークラシックは女の心の拘束具、身を滅ぼしかねない嗜好品。

用法要領を守って浸る分にはサイコーに可愛くて、去勢された女の快感に酔える、クレイジーでクールな映画です。

アニメという虚構性の強い媒体ならまだ気になりませんが、半笑いで独り言と歌ばかり歌うシンデレラは実写で大人が生身の身体で演じるとホントに狂人で、「She is  the MAD ! 」と姉達に言われるのもよかったです。

母の形見のドレスを破かれ、ついに心が折れた彼女が見た、フェアリーゴッドマザーが出てきてからの映像は過剰なほどにキラキラのゴテゴテで、「もしかしてついに狂っちゃったシンデレラの妄想では…?」と穿った見方をするのも楽しい。

 そんなわけでこの作品はある意味究極の「大人向け」映画です。

 

 

 

<宣伝>

「映画評論は男性が中心だし、TUTAYAの女性向け映画コーナーはキラキラしててムカつくのでダメ女子のための映画評論を作りましょう!」がテーマの「ダメ女子的映画のススメ」という本を出しました。

6月より通販も開始します!

9/20(日)の大阪文フリにも出店します。

詳細は公式サイトを更新していくので、ぜひそちらをご覧ください。

 

http://pinknomacherie.wix.com/damezyoshi

(公式サイト)

 

c.bunfree.net

(↑のページは前回のものです) 

 

 

【出典】

プリンセスグッズについてこちらを参考にしています

 

プリンセス願望には危険がいっぱい

プリンセス願望には危険がいっぱい

 

 

 

第20回文学フリマ東京(0評/5購入)

5/6(月・祝)の文学フリマにて購入した本を一覧にしています。

感想は追って更新していきます。

 

オ-57〜58 ,Shiny Books/アヴァンギャルドでいこうvol.3

ウ-45,mai/CLUB NAKED

オ-59,001203mm/

F-20,にゃんしー /ポエムの墓

F-19,湖ゆり 泉由良/ゆりとゆら vol.1

 

c.bunfree.net

c.bunfree.net

c.bunfree.net

c.bunfree.net

『ダメ女子的映画のススメ』を紹介していただいた記事一覧

5/4(月祝)の文フリお疲れ様でした!

今回の販売に当たり『ダメ女子映画のススメ』はたくさんの方にご紹介いただきました。

まとめてご紹介させていただきます。

 

 

<イベント前に紹介していただいたサイト>

 

●こにまおさんちのアヴァラジ!

note.mu

ラジオの後半の方に紹介していただいてます。

有名サークルさん、実力派サークルさん、新規サークルさんまで網羅していてすごいですね。 文フリの初心者さんにもオススメの内容でございます!

 

 

<イベント後に紹介していただいたサイト>

 

●オタ女さん

otajo.jp

マゾヒスティック・リリィ・ワークスは2番めに紹介されています!

オタク女子向けニュースサイト「オタ女」さんだけあって女子的に興味深いサークルさんありまくりですね? チェックチェック~

(ライターさんは赤木の「ゴーン・ガール」評が面白かったと言ってくださいました。ありがとうございます!)

 

●kugyoを埋葬する さん

d.hatena.ne.jp

 

『ダメ女子』のほかにも他にも面白そうな本がたくさん…感想が楽しみですね!

 

 

ツイッターなどでいただいた感想>

 

 

 

 皆さん本当にありがとうございます。

検索にかかったものはすべてまとめたつもりですが、「ねえぞゴルァ(#゚Д゚)!!」という方がもしおりましたらご一報ください!

また、イベント全体の感想はまたべつの記事に書かせていただきます。

 

 

追伸、『ダメ女子的映画のススメ』は6月中旬から通販開始、9月の大阪文フリにも参加予定です。遠方の方もぜひ~

私は言葉を使っているとき、知りもしない誰かに操られている~イミテーション・ゲーム /エニグマと天才数学者の秘密~

機械と人間の間にほんとうの理解はないから、

人間と人間の間にも、ほんとうの理解はない。

 

 

※ネタバレありです(実話なのでネタバレというか微妙ですが…)

 

最初はサスペンス要素を期待して見に行ったんです。ていうかポスターアートがそれっぽすぎないですか?!

加えて「エニグマ」という言葉の響き(中二心の永遠の憧れ!)もサスペンス感を醸し出しています。

ところがどっこいフタを開けると哲学映画であり、同性愛映画であり、深い深い映画でした……。

 

映画の元になったアラン・チューリングの人生をざっとまとめると、イギリスの数学者で、エニグマ暗号機による暗文を解読する機械「bombe」の開発者。bombeの開発はコンピューターの基礎を築いたと言われ、コンピューターの基礎概念を作ったと言われている。戦後、同性愛の罪により逮捕され(ていうか同性愛=犯罪だったのってほんのン十年前までだったんですね…)、41歳で自殺。

 

  • 正直イマイチな序盤

 

最初は正直言ってノれなかったんです。

というのも、これ事務系の仕事の人は割とみんな思うんじゃないかと思うんですが、普段仕事でエクセルを使ってたりすると、「特定の文字を検索する」とか「検出されるまで総当りで調べる」とか聞くと、どうしても関数やマクロを使って解く方法を考えてしまって、

いや、もちろん彼らがコンピューターの基礎を築いた功績があったから私たちのコンピューターを使う現在があるんだとわかってはいるんだけど、

例えば中盤、暗号化された文字の組み合わせを一つ一つ試す機械を作って喜んでる主人公たちがどうしても「昔の人」な感じがしてしまうのです。

必然的に、身近な問題としてではなく「昔の人の映画なのね」という感想に……。

 

あと、ヒロインがパーフェクトすぎる。

突然表れたクロスワードパズルマニアの一般人であるヒロインは美人で、なぜか天才数学者である主人公よりも有能でさえあります。しかも、その理由が一切語られないし。

ホモセクシュアルの主人公さえ彼女のことが好きになるっていうのも、なんか都合よすぎる気がするし。

採用も「男性ばかりの職場では体裁が悪いです」と一回断るところとか、「私は女よ。嫌われたら終わり」と言いながら誰にでも感じよく接する(でも業務に一切支障なし!そんなことってそう簡単かな?)ところとか、私もフェミニストですが、以上の事情は私たちの親世代のフェミニストたちにさんざん言われてることのせいか、ちょっと説教臭くも感じました。

どうにも女性を描きたいがための記号のような印象を受けてしまいます。いや、記号なら記号でいいんだけど(そういう映画もいっぱいあるし)、「記号」に説教されると、ちょっとなあ。

 

  • 哲学映画の姿を見せ始める中盤

 

以上の理由でちょっと問題ありな序盤ですが、後半の展開から評価がひっくり返されました。

 

だって、よく考えたら皆さん、もうね、「戦中に国を勝利に導いたのに戦後は同性愛のせいで国から攻撃された天才数学者」って、完全にジャンヌ・ダルク的悲劇じゃないですか。製作側は彼を悲劇のヒーローとして描くことがいくらでもできたはずじゃないですか。で、このタイミングでそれをやったら大いに問題になったはずです(アメリカン・スナイパー論争はそろそろ終焉したのだろうか……)

でもこの映画、そうじゃないんですね。

切ないほどドライな視点で、「人間が人間を理解することなんてできない」という結論に落ち着いていくんです。

 

主人公(=チューリング)はエニグマを解読するための機械を「クリストファー」と名づけ、恋人のように可愛がっていました。

「クリストファー」はチューリングが子供のころに片思いしていた男子生徒の名前。

彼が唯一の親友だったチューリングは、クラスメイトである彼と毎日毎日暗号化した手紙をやり取りし、ついに「 I love you 」と書いた手紙を渡す決心までしました。

ところがクリストファーは突然チューリングの前から姿を消します。チューリングは校長から、実はクリストファーは亡くなって、結核で余命いくばくもない体だったことが明かされます。

「唯一の親友を亡くすのは辛かろう」と気遣う校長に対して、結核であることなど彼から一度も知らされなかったことにショックを受けたチューリングは無表情につぶやきます。

「誤解です。彼をよく知りません」。

 

このセリフがこの映画の最もテーマに迫ったものと言えるでしょう。

よく考えるとこのセリフは映画の中の重要なシーンと、いくつもいくつもリンクしています。

 

例えば、生きていたころクリストファーが、初めて数学の本をチューリングに手渡すシーン(0と1が大量に並んでいることから、プログラミングの指南書?)。

クリストファーはクロスワードパズルについて、「ひとつの言葉では当てはまらないから、同じ意味の別の言葉で試す」と説明します。

チューリングは「普通の言葉とどう違うの?」と返します。

チューリングは私たちの普段しているコミュニケーションをこう説明します。「ほんとうの意味と違うのに別の言い方をする。でもみんなが理解する」。

 

これだけだとわかりにくいので、私の解釈をちょっと補足します。

人が人に何かを伝えようとするとき、まず最初に「気持ち」があります。そのままそれをテレパシーできればいいのですができないので、私は「気持ち」を、「言葉」という相手と自分の共通の道具に置き換えます。

相手は私の「言葉」を受け取り、その意味を理解します。

このとき、当然ながら相手は私の「気持ち」を100パーセント理解しているわけではありません。私から「言葉」を受け取った相手は、自身の知識や経験と照らし合わせて「言葉の意味」を解釈し、理解する(あるいは理解したことにする)のです。

「相手」の気持ちなのに、「自分」の中の意味を引っ張って解釈するのですから、当然そこには齟齬が生じます。

しかも「言葉」は、私たちが、チューリングが、クリストファーが生まれるずっと前から、ずっと世界にあったものなのです。私たちが知りもしない誰かが考えたものなのです。私たちは「言葉」を使ってしか気持ちを説明できないし、自分自身のことも理解できないので、私たちはその「言葉」に、自分の気持ちを、自分自身のアイデンティティを当てはめさせられます。

例えば、私だったら「女」という言葉に。「日本人」という言葉に。私が生まれた時点で世界に「女」「日本人」という言葉があったのです。なので私は他人にそう理解され、自分自身もそう理解させられます。

そう、チューリングの場合は「アスペルガー症候群」「同性愛者」という言葉に。

 

最大にわかりやすいのは予告でも使われたチューリングが刑事と対話するシーン。

「教えてくれ、機械は人間と同じように考えることが出来るのか?」と聞かれたチューリングは少し考えてこう答えます。

「質問が変だ。違うふうに考えることは、考えていないことになるのか? 機械は人間と違うふうに考える。だが人間も同じだ。それぞれの脳が違う風に考えて、別々のハードを持つ」

 

一般的に、アスペルガー症候群の人は「機械みたいだ」と人によく言われます。

チューリングは「機械と人間を同列に考えている」のです。チューリングにとっては人ではないもの/コンピューターも、自分ではないもの/他人の脳も「自分とは違うハードを持つもの」であり「理解できなさは一緒」なのです。

フェミニストをはじめ、リベラル派の人たちは「他人とは同化できないしするべきではない」という考えから発想が出発します。

チューリングの思考はなんて平等な思考でしょうか。

非常に現代っぽいと感じます。

 

私の解釈では、この映画はチューリングの人生を、ただヒーローの悲劇的な人生として描かず、彼の生涯を描くことでこう発信しています。

人間がコンピューターを理解できないように、人間は人間を理解できない」。

そこから差別も偏見も起こりうる、ということが、この言葉の意味の一つとして含まれています。

 

「人が人を理解することは出来ない」と彼がわかっていたように、「ついに理解されなかった」同性愛者の彼は、戦後、男性との性行為が国にバレ、男性ホルモンの投与(いわゆる「化学的去勢」)を強制され、41歳のとき自殺。

 

「私がなんとかする」と言うヒロインにチューリングは「私からクリストファーを奪わないでくれ」と泣いて頼みます。「クリストファー」と名づけた解読機を大切に大切に手入れし、「クリストファー」と2人で暮らしていたチューリングは、警察に没収され、壊されることを泣いて拒みます。

久しぶりにヒロインが尋ねたときには、彼は投薬治療によりクロスワードパズルすらできないようになっていました。

 

私自身、昔彼と非常に近い状態に陥ったことがあります。ホルモン系の病気になり入院しているときだったのですが、話そうとすると「言葉」が何も出てこない。言われた「言葉」の意味がつかめない。何か意味を掴み掛けたと思うと忘れる。ずっとどもってる。言葉に出来なければ、私の頭の中で何が起こっているかなんて家族も気づきません。みんなが「バカ」という目で見てきます。

子供のころから書くことだけを生きがいにし続けてきたのです。もう二度と書けないのだろうかと思うと、地面が揺れるような、めまいのような感覚にただただ呆然としていました。

 

だから、最後に字幕で表れる「41歳のときに自ら死を選んだ」の文字に納得しました。私も、もしあのとき治らなかったら彼と同じ道を選んだかもしれません。

 

映画の序盤「昔の人」にしか思えなかったチューリングは、映画の終わりには完全に共感する人物になっていたのでした。

 

もちろん、共感できたのは投薬治療のエピソードだけのおかげではなく、それまでの積み重ねがあってこそ。

すばらしいと思ったのはベネディクト・カンバーバッチの「言葉以外の演技」。

まず、「運動神経悪い演技」が見事(笑)「触るな!」なんて威勢のいいことを言うわりに、ちょっとどつかれただけで倒れちゃう(しかも、上半身が硬直しているw)のは運動神経悪い者としてあるあるでした。

それから、彼の感情が爆発したシーンに何回かある「走る演技」。これはスティーブン・ダルドリー監督の映画「ものすごくうるさくてありえないほど近い」のアスペルガー症候群の少年があふれる感情に耐え切れずブワーッと喋りだすあのすごいシーンを思い出しました。

ラストのみんなで文書を燃やすシーンの笑顔なんて、「言葉に置き換えられないもの」を役者が身体で表しています。

ベネディクト・カンバーバッチお見事。彼の演技は初見でしたが、人気あるのも納得です。

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<余談>

※どうにも、まるでタダシを失ったヒロが兄の優しさを具現化したロボットであるベイマックスを相棒としたことと重ね合わせてしまいます。「科学の前では身体的ハンディもなくなる」という同じ科学者スピリット映画ですが、ベイマックスが「未来と希望」の側面を描いているとして、この映画は「過去と現実」を描いているのかもしれない…とつい対比してしまいます。

 

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