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『渇き。』の加奈子は現代女子の偶像である ~クレバーな少女は誰も所有できない〜

 

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※ネタバレ有りです

 

かつて、私が10代だったころ、私たちのカリスマは土屋アンナさんだった。

 

 

 

 

下妻物語』の中の、黒い口紅を塗り原付きを乗り回す彼女の、「輪の外側の人間」感に憧れた。

 

「輪の外側」とは、今回「渇き。」を見る際に上映された予告編のジブリ映画『思い出のマーニー』のナレーションに使われていた言葉である。

本編が始まる前にまったく違う映画から出たこの「輪の外側」という言葉が、『渇き。』を見ている間じゅう頭から離れず、何度も繰り返した。

この「輪の外側」という言葉で今回見た『渇き。』を読み解くことが出来ると思ったからである。

 

特別詳しくもないのに恐縮だが、

中島哲也監督はこれまでの作品でも「輪の外側」を描き続けてきたようにも思える。

 

下妻物語』は、ロリータ衣装に身を包み「輪の外側」を独りで愚直に生きる桃子(深田恭子)と、「輪の外側」を生きるため結果的に暴走族という輪の中に入って生きざるを得なくなってしまっている矛盾を抱えたイチコ(土屋アンナ)が、桃子との出会いをきっかけに「本当の自由」を手に入れる話だった。

 

嫌われ松子の一生』は、「輪の内側」の人間だったはずの品行方正な教師・松子が悲劇をきっかけに輪の外へ外へと押し出されていく物語である。

 

パコと魔法の絵本』は社会から隔絶された入院患者達の人生の美しさを描いた物語。

 

そして『告白』は、学校という内側の世界を統治していたはずの女性教師の、外側の世界での復讐劇でした。

 

 

つまり「輪」とは「マトモな人々の住むマトモな世界」 です。

そして中島監督の作品の中で、今回の『渇き。』は最も「輪の内側と外側」についてハッキリと描いた作品のように感じました。

 

 

①主人公(役所広司)にとって、愛することは所有すること。

 

 中島哲也監督は、「人間の愛と、憎しみは対局にあるものではない。」とコメントで語っています。

これはどういう意味でしょうか。

主人公(役所広司)は、家のCM(ダイワハウス?)に代表される「美しい妻と可愛い娘のイメージ」を猛烈に恨んでいました。

 

主人公の

・別れた妻の寝込みをなぜかレイプしようとする

・娘を探す過程で途中まで娘を完全に理解できると思っている(途中で諦める)

・何の脈絡もなく妻も娘も殴る蹴る

などの行動から、彼にとって「家族を愛する」=「所有する」という式が成り立っていることがわかります。

少なからず日本社会はこの考えに支えられてきた側面があり、家族を持つ古いタイプの男性が陥りやすい考えだと思います。

 

ですが私は主人公のこの価値観を、映画の意図を汲もうとした結果か、あるいは劇中で主人公があまりにひどい目に遭いすぎるせいか 、あまり否定したくはないのです。

 

 

この話を進めるために、ちょっと話がそれますが私の父の話をさせてください。

私の父は家族にとっても親戚にとってもご近所さんにとっても大変迷惑なタイプの人でした。

大変なワンマンで、スイッチが入ると他人の話はまったく耳に入らず、しかもひと目で「これは敵わない」と後ずさりしたくなるほど太い指と太い腕を持つ大男なのです。

 

その父が、映画館の話をしたことがありました。

 

ある映画館で、火事が起きた。火事が起きたのに映画館のドアを押すタイプだと勘違いし、全員が焼け死んだ。許せない。誰か一人でも冷静な人がいれば、全員が助かったかもしれないのに。

 

今だったら私は、誰か一人冷静な人がいて、それで何になるんだと思うでしょう。

冷静な人がいたとしてもパニックになった人たちを前に為す術無く飲み込まれていくような気がするのです。

でも、子供の頃の私は、父なら本当にやるだろうと思いました。

そのドアが引くドアだと思ったなら、太い腕で人を強引に押しのけて進み、ドアをこじ開けるだろう。いつものあの、話の通じない「独裁モード」の顔をして。

 

それは絶望と安心の入り混じった気持ちでした。

「父の所有からは抜けられないんだ」という絶望と、「ここにいる限り安全」という安心。

「愛」=「所有」と考える厄介なタイプの父親も、迷惑なだけではなく子供にそういう安心を与えることはできるのでしょう。

 

 

この映画の中でも、主人公の所有欲求は、全面否定で描かれているわけではないと感じました。

主人公の(元)刑事という職業設定もあり、このような主人公の多少暴力的で失礼な言動も視聴者にとって「頼りがい」「行動力」として認識されるよう肯定的に描かれていたように思います。

 

主人公の悲劇は、「輪の外側」に出てしまったことです。

そのあまりに強すぎる所有欲のせいで、浮気した妻とその相手を、半殺しになるまで殴ってしまった。

社会は「家族を所有した男」が「所有物」の中で隠れて暴力をふるう分には寛容だけれど、家の外での犯罪行為となれば、マトモな社会という輪の内側からは追い出さないわけにはいきません。

 

 

「俺だって夢くらい見るさ。愛する妻と娘のいる家庭を……ぶっ壊してやることだ!」

所有欲の強い男にとって、所有できない家族には、強い憎しみが募ります。

「所有物」を失った男による愛=憎しみが、主人公の上記のセリフにあふれています。

 

 

 

 

 

② なのに、娘だけが所有できない。

 

主人公がついに娘をレイプするシーンも、「家族=所有物」という、所有欲求の表れと捉えることが出来ます。

あの上野千鶴子先生も著書『女ぎらい』の中で、

 「妻というついに理解し合えない女よりも、いくばくかは自分のクローンで、若い肉体を持つ娘に、父親がそそられないわけがない」(文脈うろ覚え、申し訳ありません)ということも書いてます。

 

 

 

なのに、加奈子はその上をいく。

レイプされても笑いっぱなし(この埒のあかなさは1997年のリメイク版『ロリータ』を思い起こさせます)、それどころかセックスもドラッグも自在に乗りこなしてたことも、父親である主人公はだんだん知っていきます。

それもそのはず、わかりにくいですが加奈子は映画の始めから終わりまでただただ「自分の命をもって売春組織を壊滅させる」ためだけに動いているのです。

その後に暴力団から逃げられないことを見越して、一人だけさらっと楽に殺されてるし。

あっぱれ、とても「マトモな社会」の手に負えない能力と根性の持ち主です。

 

 

 

現代の女の子たちは当然知っています。

親や彼氏の「所有」しようとする力には、意志ではどうにもならないことを。

自分たちに商品としての価値があり、その背景にはどうやらなにか大きな怖いものがあるらしいことを。

諦めてしまうのではなく、のらりくらりとかわすでもなく、真正面から向き合って、なおかつそれらをものともせずに生きるには、絶望的なことですが、加奈子のようになるしかないのではないのでしょうか。

でもそんなクレバーすぎた少女加奈子は、マトモな社会の手に負えず、蔑まれて、恨まれて、刺されて、死ぬ。

 

 

女の絆でアナーキズムを貫こうとする『下妻物語』のころから「輪の外側」を描いてきた中島哲也監督のたどり着いた場所に旋律します。

そんな時代に「女」をやっていかざるを得ない私たちの明日はどっちだ。

 

 

 

 

 

 

 

長くなりましたが以上です。

余談ですが屋上でのオダジョーと役所広司の撃ち合いのときの「運動会感」はハンパないですね。

 

 

 

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『渇き。』がわからなかった人向けの解説(ネタバレ有り)

当記事を書くにあたり参考にさせていただきました。