映画『渇き。』 ~映画とは主人公による観客へのハッキングである~
監督:中島哲也
製作:依田巽 鈴木ゆたか
プロデューサー:小竹里美 鈴木ゆたか
映画の可能性から考える子供への規制。
※ネタバレはないと思います
(http://movies.yahoo.co.jp/movie/348084/review/29/)→こちらのレビューにもあるように、この映画は同じ一つの出来事を
加奈子の視点 →赤×ピンクのカワイイ映像
父の視点 →色のないモノクロの映像
「ボク」の世界 →ブルーが貴重の爽やかな映像
でそれぞれ描いています。
視点が変わるごとにまるで違う映画のよう。主軸となるストーリーが、登場人物それぞれにとってどう見えていたのかを視聴者にそのまま見せてくれます。
娘を探す父親がその過程で知っていく深刻でおぞましい出来事は、
加奈子には明るく楽しくカワイイ出来事であり、「ボク」にとっては美しい青春映画のような出来事だったのです。
これが映画の強みだ、と見ているうちに思いました。
小説や音楽よりも情報量が多い映画は、情報量が多い分想像の余地が狭まる代わりに色や動き、迫力で主人公の見ている世界を最も近い形で観客に体験させることが出来ます。
これについて話を進めるために、いきなり話が飛ぶようですが、違う映画の話を2本させてください。
「イノセンス」では主人公たちが「ゴーストハック」されるシーンが繰り返し出てきます。
ゴーストハック:
ゴースト(意識)を乗っ取られる(ハッキングされる)こと。その結果ゴーストハックされた人間は、ハッカーが用意した情報を意識に擦り込まれる。そうなると、ハッカーが用意した現実に存在しないものの情報を「存在するもの」として知覚してしまう。そのため存在しない相手と戦うことになったり、自分がするつもりのなかった犯罪行為を「やらなければならないこと」と思って実行してしまう。(攻殻機動隊基本用語集<http://www.kyo-kan.net/oshii-ig/innocence/gitswords.html>より抜粋)
観客は主人公の体験しているゴーストハックを何の前触れもなく主人公と同時に体験させられるので、当然混乱します。(おそらくこの映画がいろんな人に「一回じゃ理解できない」と言われている最大の理由)
②『めぐりあう時間たち』における食べ物たち
監督スティーヴン・ダルドリーはこの映画のコメンタリーで「(この映画では)食べ物はできるだけグロテスクに描いた。なぜならヴァージニアの視点だからだ」とコメントしています。
あんまり美味しくなさそう。
「何か食べろ」と夫に言われ続けているほぼ拒食症のヴァージニアは、メイドにも「奥様はいらないものをいるとおっしゃりいるものをいらないとおっしゃる」「欲しいものがないのよ」と嫌味を言われています。
この映画に映される料理はラムパイやカニ料理など、本来美味しそうなものばかりなのに、食欲を減退させるような絶妙な撮り方をされています。
(ちなみに、世界中で料理を作るのはほぼ女性であり、拒食症の患者も9割が女性だったりと、「食事」は常に女性と密着しているテーマなのだそうです)
監督のコメントを踏まえて意図的に料理に注目して見た場合は別ですが、観客の多くは随所随所で一瞬映る料理などほとんどちゃんと見ていません。それでいて、ヴァージニアの食事に感じている嫌悪感をしっかり体験して、共鳴しているのです。たぶん無意識に。
こういうすごいことができるのは映画ならでは、もっと言うと「上品」な映画ならではだと思います。
『めぐりあう時間たち』は見終わった後、なぜか「死」に憧れや癒やしを求めてしまいそうになる映画です。
でも決して過激な内容ではなく上品な日常モノです。刺激を求めて見るような過激な映画は「虚構」として楽しめますが、これは観客を主人公側に共感させる過程が非常に丁寧です。
『イノセンス』的なことを言いますが、これは『上質なハッキングほど自然に入ってくる』ということのような気がします。
個人的には、これは昨今話題になっている「映画の子供に与える影響」について考える際、吟味する必要があるような気がするのですが、どうでしょうか。
今回の『渇き。』も、R15であることがずいぶん話題になっていますが、虚構として見るのか共感して見るのか(あるいは製作者側は見る人をどっちに誘導しようとしているのか)は扱っている内容と同じくらい重要な気がします。
映画『渇き。』は私にとって、「映画のできること=主人公の感じた世界を疑似体験させること=同じ出来事でもキャラクターの見た世界はまったく違う、ということを示すことが出来る」を示してくれた、映画のすごさに改めて気がついた作品でした。
<余談>
感想を巡っていると、「子供に見せない方がいい」「むしろ防衛のために見せた方がいい」「子供を持つ親は見るべき」などなど、「親と子」に対するコメントがたくさんあるなあ~と感じました。
個人的には子供のころってこういう過激なものが楽しくて仕方がなかったので、きっと今よりもずっと作品を楽しんでいたような気がして、なんとも言えません。
それよりも思ったのがこういう感想を持つ人の中で「親と子」ってどこにいるんだろう? ということでした。具体的な誰かのことではなく、残酷なニュースを見たり聞いたりしたときに頭の中にだけ存在する「親」や「子」というイメージ、という感じ。
私自身が虐待のニュースを見て「バカ親」とか思ってそういうイメージをどんどん膨らませることが充分にあるので、これは自戒であるのですが、
「娘を追いながら品行方正だと思っていた娘の正体を全然知らなかったことに気付かされる」この映画って、むしろ本質を見ずにイメージでモノを捉えて言ったり書いたりしてしまう、こういう心理の怖さをテーマとしているのでは、という気がするのですが、どうでしょうか。
次回は「薬指の標本(2005,仏)」のこととキルラキルのことをいまさら書きたいです。
今期はこのあとは「マレフィセント」と「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を見る予定です~