イノセント・ガーデン ~母のようにはなりたくないから、母を殺さない~
「ブラック・スワンの製作スタッフが放つ」と銘打つ今作ですが、
ブラック・スワンのヒロインの破壊衝動が全て自分の内側に向かっているとしたら、こちらは全て外側に向かってしまった映画。
なので、最初から最後まで非常に血なまぐさい映画です。ミア・ワシコウスカの母親が、親戚のおばさんが、ボーイフレンドが、大変なことになってます。
※ネタバレ有りです
「イノセント・ガーデン」の「イノセント」とは、
①インディアとその母の住む屋敷の美しい庭(すごい広い)のことであり、
②少女インディアの未知なる能力のことであり、
③インディアの人生における手付かずの「余白」であり、
④もちろんセックスの未経験者という意味での「処女」でもあると考えられます。
●男性目線からの処女性と、女性にとっての処女性
一般的に、「処女」はホモソーシャル的な男性からの目線ではとても価値のあることとされています。
それは処女が男性目線では「未使用の性」、「これから汚すことができる」魅力を有することからです。
女性が処女を喪失する時、男性は当事者ではありませんから、男性にとって「少女が汚れること」は単純に「失うこと/消滅すること」を意味します。
ところが、処女喪失の当事者にとっては、処女を失ってからも生きていくわけですから「失っておしまい」ではなく「変化する」ことであります。
それは「新しい自分に変わること」であり、そして映画冒頭での遠くを見つめるインディアの非常に満足した顔の理由なのでしょう。
「ドキドキしてるの……」と保安官にうっとり訴えるあのシーンは、保安官をこれから殺すことに対するドキドキだけではないのです。
「花が自分の色を選べないように、人は自分を選べない。そのことに気づけば自由になれる」。インディアが「処女」を失った先には、男性社会がとても手におえないような未来が待っているのです……
私の家の側の小さな図書館の「ジェンダー/女性論」のコーナーにも並べられている「女が邪魔をする」の著者である、アーティストで文筆家の大野左紀子さんは、『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣の中で、
『「男への幻想を捨てよ。しかし自己解放はほどほどにせよ。国や家族という共同体を大切にし、各々の社会的役割を遂行せよ」というのが、(作り手が意識しているかどうかは別にして)この作品の発している率直にして辛口なメッセージである』
『解放された女の力は何をしでかすかわからんアナーキーな暴力となって荒れ狂うので、愛でなだめ社会的居場所を与え適切にコントロールしなければならない、というわけだ。リベラル層に受けそうなフェミ味の砂糖衣をまぶしつつも、肝心なところはきっちりと男(社会)目線からの「女」が描かれている』
とおっしゃっております。
だとするとこちらは「解放されてしまったアナーキーな女の物語」。レイプ未遂のボーイフレンドをベルトで縛り、怪訝な顔で殴るけるを繰り返すあのシーンに9割の罪悪感と1割のドキドキを感じたのは私だけではないはず……
●父と母の施した、それぞれのインディアをなだめるための「愛」とは?
インディアの父は、狩りをさせることでインディアの殺人衝動をなだめていました。
いわく、「たまに悪いことをすれば最悪のことはしないもんだ」。
このセリフには町山智浩さんの「危険なメソッド」の解説を思い出しました。
かつて、酒もタバコも禁止され、抑圧されていた旧世代の女性たちはしばしば「ヒステリー」となり、「悪魔憑き」と考えられ例の有名な「エクソシスト」を呼んで、水ぶっかけられたり紐で縛られたりしていました。女性だってひたすら「大人しく、大人しく」と言われ続けたらおかしくなってしまいますが、エクソシストに暴力を受けることにより女性たちもエネルギーが解消されていたのだそうです。(なんですかその新手のSMみたいなのは……)
インディアの父が死に、インディアの衝動をなだめるものはなくなりました。そこへ誘惑者としての叔父が登場するのです。
●母のようにはなりたくないから、母を殺さない。
田房永子さんの「母がしんどい」がヒットし、「毒母」という概念が広く知れ渡りましたが、「イノセント・ガーデン」は製作者側の、「全面肯定」でも「全面否定」でもない母の描き方が非常に新しく、面白いと感じました。
例えば、食卓のなんてことない会話。
叔父「男に出来ることが、女に出来ないはずがない」
インディア「それってどういう意味?」
母「フランス語で聞いてみるといい響きよ」
……書いてて悲しくなってくるくらい、典型的なリア充母と根暗娘の噛み合ってない会話です。
特にこんなとこ読んでくれてる方はきっとオタクな方が多いと思うので、こういう経験したことある人多いのではないでしょうか。
なにせ、ニコール・キッドマン演じるこの母ときたら、終始「今しがた美容院に行ったばかり」というような髪型をして、喪中にも関わらず「ショッピングとアイスクリームはどんなときも人を元気にする」などとのたまうのです。私的には「やめろーやめろー!」と後ずさりしたくなりますが、みなさんはどうでしょうか。
ところが後半から、この母はひどく遠回しな方法で娘をずっと守っていたことがわかります。
母は娘と違い「女」であることを当たり前に内面化し、それを武器にできる女性でした。娘に危険が及ばないため、何も知らないフリをしつつチャーリー叔父を誘惑していたのです。
このあたり、私は「母は、この場所からずっと私を守ってくれていたのだ」とのナレーションで終わるン十年前に見たホラー映画「仄暗い水の底から」のラストを思い出しました。
母の首を締めながら、叔父は叫びます。「インディア、早く見に来い!」
しかし、インディアが撃ったのは母ではなくチャーリー叔父でした。
ここはきっと視聴者に用意された最大のサプライズ……あれ? もしかしてみんな予測できた?
インディアはなぜ母ではなく叔父を撃ったのでしょうか。
私はこれをシェイクスピアの「ハムレット」的世界に描かれた「王殺し」的な意味であると考えます。
その時代、王になるには王を殺すしかありません。王は2人いらない。
インディアの中には2つの衝動がひしめきあっていました。ひとつは「女性であることを安々と内面化し、大人しく生きることに何の疑問も感じていない母」の娘としての自分、もうひとつはサイコパス的狂人である叔父さん的な自分。
つまりインディアが「殺す」と選んだ方とは、これからの人生において「その人のような人生を選ぶ」と決めた方なのです。
●叔父さんの黄色いリボンとはなんだったのか?
ところで、ヒロインの叔父さんであるチャーリーは、①の「インディアと母の住む屋敷の広大な美しい庭」に黄色いリボンのかかったプレゼント箱置くし、そのリボンをシューっと引っ張ってやたら見せつけながら外すし、黄色い傘貸してくるし、作品全体を通して「黄色」がイメージカラーとして使われています。
終始「おっさんのわりになんでそんな陽気な色なんだよ」と思っていたのですが、ラスト、保安官を撃ち殺したインディアが道路の上の「黄色いボーダーライン」を踏みつぶして歩き出すところで気が付きました。
チャーリー叔父さんは物語の中で「黄色いボーダーライン」そのものなのではないでしょうか。
シャーロット・パーキンス「黄色い壁紙」や、「頭のおかしい人は黄色い救急車がやってきて連れて行ってしまう」という日本の都市伝説が表すように黄色は「狂った人」の象徴としてよく使われます。
異端者であり、父や母にとって「狂った人」であったチャーリー叔父さんは、インディアの人生において「正常と異常の区切り」の位置に存在しています。
インディアは叔父さんを撃ち殺し、道路の黄色い線を踏みつぶしてその先へ歩いて行くのです。
叔父さんはインディアにとって、「母の娘としての人生と、狂人としての人生とのボーダーライン」の役割を果たしているのでした。
すっかり長くなってしまいましたが以上です。
上記ではまったく言及できませんできたが最初から最後まで映像がとてもカワイイんです、でもなんか画面逐一キャプチャして「Earth music and ecology」って付けたくなる~~~~。
そして主演のミア・ワシコウスカはアリス・イン・ワンダーランドにもジェーン・エアにもキッズ・オールライトにも主演で出てたしなんか時代のヒロインじゃないですか? 「意思の強い可愛い子ちゃん」顔なのか? アメリカ版宮崎あおいポジション?
ド直球なテーマだし個人的にはこの映像美もあってこの先何度も繰り返し見ると思います~~~