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『トリスタントイゾルデ』に描かれる身体性と思想性 ―ロマンティック・ラブ・イデオロギーの役割―

 

 

 

 

こちらを見てきました。

 

 

トリスタンとイゾルデ [DVD]

 

 

 

ちゃんと探していないのですが、

キスシーンドーンなパッケージしかないんでしょうか?笑

内容としては、

なんでこの絵しかないんだろう? って思うくらい真面目なものでした。

 

以下感想

 

 

 『トリスタンとイゾルデ』は中世に宮廷詩人たちが広く語り継いできた悲恋物語である。

 私はこの物語を、「人が社会生活を送っていく上で培われる思想性(理性)を非人間的なものとし、身体性(恋)によってそれを取り戻そうとする物語」、社会への人間の反抗の物語であると感じた。

 

イゾルデはアイルランドの姫であり、トリスタンはコーンウォールのマルク王に育てられた騎士である。

アイルランド王を悩ませていた竜を倒したトリスタンはアイルランド王の娘トリスタンを得、イゾルデをマルク王の妻とすることを求め、マルク王もこれを承諾する。

二人はコーンウォールへ向かう船で「王と初夜に飲むための」媚薬を誤って飲んでしまい、激しい情愛に囚われることとなる。

 

原作とともに2006年の映画版『トリスタンとイゾルデ~あの日に誓う物語~』を参考にした。

トリスタンはマルク王に隊長に任命される際、「感情を理性で抑えられる冷静な男」と紹介されるほど「思想性」に寄った社会的な男である。

対して、イゾルデはトリスタンとの出会いの場で「感情が不要なものならなぜ心があるの。触れるべきじゃないものならなぜ欲しくてたまらないの」とトリスタンに語るような身体性(人間味溢れる豊かな感情)に近い人物である。つまりトリスタンから見たイゾルデはトリスタンの持たざるもの、「人間味溢れる豊かな感情」を持った女性である。

 

 

この物語において「毒」と「媚薬」が重要な役割を果たしている。

トリスタンは戦いで敵の毒により重症を負い、「どんな毒でも取り除ける」王妃に預けられ、命を救われている。更に誤って飲んだ媚薬の効果に翻弄され続けることとなるのだ。

「薬」は人間の知力によって作られた社会的なものであるが、体の中に入ってその作用を発揮し、体を操ってしまうことで身体的なものとなる。

物語において媚薬は「二人の気持ちはどうしようもないもの」として観客のシンパシーを誘う役割と同時に、思想性と身体性の橋渡しとしての役割も果たしている。

 

イゾルデがマルク王の妻となってからは、トリスタンとイゾルデ、マルク王はお互いへの気持ちを保ち続けた。

トリスタンは師として、また王としてマルク王を敬愛していたし、マルク王は妻としてイゾルデを、息子としてトリスタンを愛していた。またイゾルデは、政略結婚であるにもかかわらず優しいマルク王に感謝していた。

 

三人の関係について、2006年のケヴィン・レイノルズ版の映画では象徴的なセリフがある。

 

トリスタン「自分には愛は必要ありません」

王「なぜだ」

トリスタン「他に重要なものがあるからです。義務や忠義といった」

イゾルデ「それはからっぽの人生よ。愛は神様が作ったもの。目を背けると地獄の苦しみを味わう」

 

これは、最も直接的にこの作品の中での恋愛至上主義、つまり「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を表すシーンであり、イゾルデは体と愛(感情)がくっついている人物であることを表す象徴的なシーンである。

 

王「なぜそっけないんだトリスタン。この石の城は私とお前の作ったものじゃないか」

トリスタン「いまは牢獄です。この中では全てが虚しく感じる」

 

このセリフからは、トリスタンと王がトリスタンと王は別々の人間として存在するのではなく、「石の城」の中でくっついているのではないかと感じた。つまり、トリスタンと王の繋がりは社会の中に生きるの人間の思想性によった繋がりを表しているように感じる。

 

人生において「妊娠、出産」が重要な意味を持つ女性にとって、身体性からは離れられないものである。

それに対して男性は、自らの思想と身体を切り離し、社会との強い繋がりの中で同性同士で繋がっている。

イゾルデは愛と体がくっついているので、トリスタンを心から愛していると同時に、王のことも愛することが出来るのだ。(ギャッツビーを愛しているにも関わらず長年夫婦として暮らしたトムのことを愛してもいる『華麗なるギャッツビー』のデイジーと重なる部分もある。しかし物語の中でギャッツビーにはそれが理解できないようだ)

 

映画の中で、奇妙なシーンがある。王に隠れて別室で密会していたはずのトリスタンとイゾルデが体を重ねるシーンが、とつぜんマルク王とイゾルデの体を重ねるシーンに変わるのである。

場所も同じであり、場面転換も唐突なので、視聴者からは、イゾルデの相手だけがとつぜん入れ変わってしまったように感じる。

イゾルデはトリスタンや王と身体的な愛で繋がるのに対し、トリスタンと王は体を使わず思想性で繋がる(ここにも愛がある。ある意味ではホモセクシュアル的である)。

上記のシーンはその2つを同時に表すシーンのような気がした。

 

 

それは映画序盤の、瀕死の状態のトリスタンを、イゾルデとその乳母が裸で温めるシーンとも重なる。

トリスタン、イゾルデ、乳母、三人の人間が洞穴の中で裸でくっつきあう姿は、三人は別々の個体ではなく「人間という一つの生き物」という感じがした。

それらのことから、「思想性のもと作られる社会に反抗し、恋をして身体性に翻弄されることで人間味を取り戻す」この物語の意味は、足りないものを求め合い「完全な人間」となるため奔走する人間を表しているのではないかと考えることも出来る。

 

 

このように、中世のこの物語において恋とは、社会という思想性への反抗を行うことによって人間の身体性を取り戻す意味を果たしていたのではないだろうか。

 

 

身分制度がある程度崩れ、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が大衆にとって身近になった時代に描かれた『華麗なるギャッツビー』では、恋は現実に打ちのめされる儚い夢の一部であり、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の更に主流になった村上春樹の『ノルウェイの森』では、恋が辛い現実と主人公をなんとかくっつける緩和剤としての役割を果たす。

 

 

以前私は、『華麗なるギャッツビー』の感想として、「ロマンス」は「非合理の合理化」であると考えた。

今回『トリスタンとイゾルデ』を読み、かつて身分制度の厳重だった社会において、ロマンスは社会に反抗する手段であり、人間にその力を与えてくれたものだったのではないかと考えるようになった。

また、「少子化」や「若者の恋愛離れ」が問題視される現代は、既に『ロマンティック・ラブ・イデオロギー』が社会と一体化している側面があり、恋をすることそのものが社会制度に従うことに変化してしまったのではないだろうか。