5月5日文学フリマ発行本 “溶けてなくなる” サンプル
5月5日文学フリマにて、
“溶けてなくなる”
サークル名:殴って(ぶって)
(B-16 / Eホール1F 純文学)
(A6、60ページ、価格未定)
という本を発行します。
殴って@第十八回文学フリマB-16 - 文学フリマWebカタログ+エントリー
今日から、本文から抜粋してサンプルを載せていきますので、
ご参考に慣れば幸いです。
“溶けてなくなる”
(1~2ページより)
子供のころから、ずっと考えていることがある。
たとえばレモンからすべての要素を抜くことができたとして――黄色い、すっぱい、丸い、硬い、その他すべて――りんごの要素を入れることができたとしたら――味、色、歯ごたえ、その他すべてだ――それは「りんご」だろうか。
人から認識されるすべての要素が「りんご」だとしても、レモンの本質は残るはずだ。誰も見たことのない、レモンの本質。
だけど――レモンの皮を削ぐ。見ているだけの場合において、レモンの果肉が実際よりより甘やかに見えるのはなぜだろう――あまねくすべての人がそれを「りんご」と言ったとして、レモンの本質に意味などあるのだろうか? それはりんごであることと何が違うのだろう。
私の右脚だったものを、ゴミ袋に入れた。
不恰好な形だ、と切に思った。
それは私の脚といわれるよりは、何か別のもの――日のあたらないところでぶくぶくと伸び続けてしまった植物とか――と言われたほうがずっとそれらしいと思った。
子供のころ、祖父の部屋にはそういうものがたくさんあった。何も入っていない鳥かごとか、ほんもののうさぎの毛を被ったインディアンの人形とか。祖父の部屋で見た、茶色い液体の満たされたビンに入った木の根たち。ビンは壁一面に並んでいて、さまざまな形をしていたけれど、どれも青白い色をしていた。死んだ植物の色。
祖父の部屋は真昼でも薄暗く、とても清潔なにおいがした。私は冷たい椅子に座って、外の世界を想像した。窓の外からときどき聞こえる音と、厚いカーテンの間からぷつぷつと射し込むわずかな光。
袋の中の脚を見ている気分は、「悲しみ」とはまた別の何かのような気がした。
うるさい場所でやっと眠りにつけたときのような、寝転んで窓から空を見上げたときの、突き落とされたような、それでいて自分の体が広がっていくような、そういう感覚。
次回以降もう少し続きを掲載いたします