11月24日文フリ参加情報
映画を中心に、「毒母」を考察する。
クラシックから現代に至るまで、映画には様々な形で「母」が描かれてきました。
時には暴走する母の恐ろしさを、時には世間の母性神話に苦しむ一人の女性としての姿を、そして時にはそんな母たちを生み出す構造そのものを。
そんな映画に描かれた母たちをテーマに作品を選び、考察しました。
イノセントガーデン
キルラキル
思い出のマーニー
おおかみこどもの雨と雪
少年は残酷な弓を射る
ヴァージンスーサイズ
ヴィオレッタ
を収録。
デザイナーのキライシオリさんがお店を開けてくれています。
お手数をおかけしますが、御用のある方は13:30以降にお声をお掛けください。
文学フリマサークル情報
以外作品情報
⚫︎プリンセスシンドロームへようこそ!
百合でSM。
ケーキの上の人形めいた少女、糖子と共に住む、引きこもりの「わたし」は、ガラスの食器棚の中に、睡眠薬とウィスキーを集めていた。
A5、24P、300円(予定)
⚫︎映画の中の毒母たち
映画を中心に、「毒母」を考察する。
クラシックから現代に至るまで、映画には様々な形で「母」が描かれてきました。
時には暴走する母の恐ろしさを、時には世間の母性神話に苦しむ一人の女性としての姿を、そして時にはそんな母たちを生み出す構造そのものを。
そんな映画に描かれた母たちをテーマに作品を選び、考察しました。
イノセントガーデン
キルラキル
思い出のマーニー
おおかみこどもの雨と雪
少年は残酷な弓を射る
ヴァージンスーサイズ
ヴィオレッタ
を収録予定です。
A5、24P、500円(予定)
文学フリマ公式サイトはこちらです。
http://bunfree.net
ちなみに、私は所用のため13:30からの参加となりますが、
デザイナーのキライシオリさんがお店を開けてくれています。
お手数をおかけしますが、御用のある方は13:30以降にお声をお掛けください。
11月24日文学フリ参加情報
ヴァージン・スーサイズ ~精液をかけることによって失った少年の中の少女性~
私たち20代女性の永遠の謎、ヴァージン・スーサイズ。
少年たちの憧れの美しき五人姉妹は、映画のラストで何の前触れもなく突然自殺。
しかも理由については一切語られない。
この謎多き映画については解説サイトもたくさんあるのですが、何しろ映画側から与えられた情報が皆無なので、「これだ!」という明瞭な答えを言い当てたものはないような気がします。
そのことについて一生懸命考えてみたのですが、
自分なりに達した結論は「これは少女たちの物語ではなく少年たちの物語だからではないか?」ということでした。
これは始めから終わりまで少年たちの成長物語であり、少年たちに全くわからないことは我々にも伝えようがないのではないのでしょうか。
原作の顛末は、全て少年たちの視点で語られています。
①少年はなぜ少女たちを「観察」したか
これは原作を読んでかなり印象的だったのですが、少年たちは思春期ということもあって意志が頼りなげで、自己が確立せず揺れ動いています。
唯一一貫しているのは「大人の男になりたい」という強い強いエネルギーです。(思春期っぽい!)
少年たちにとって、「憧れの五人姉妹の生活を覗くこと」は大人の男の持つ性的欲求の模倣であったことはほぼ間違いないと思います。
②ただただエロい人形であったはずの少女たちとの不思議な同化
しかし、ここがこの物語の最大のミソであると思うのですが、
自己の確立していない少年たちは、 大人の男の模倣として少女を性的対象として観察しながら、
少女たちを観察し、日記を読み、生理用品を物色するうちに少女と同化してしまうのです。
「僕らはセシリアの日記から、彼女たちの生活を垣間見た。女の子であることの窮屈さ。彼女たちは大人で、僕らは騒々しいだけの子供だった」(原作より抜粋)
このセリフには少年たちが自分が自己が確立されていないことを認めつつ(→「彼女たちは大人で、僕らはただ騒々しいだけの子供だった」)、
同化していく心理がよく表れていると思います。
また、映画には、ラックスのバスルームに入った少年が、口紅を凝視し、フタを開け匂いをかぐ(ほとんど付けようとする)シーンが挿入されています。
これは少年の心が懐疑的ながら「オンナ」に同化していくことを表すコッポラさんの非常に上手なシーンだと思うのですが、いかがでしょうか。
③精液をかけることによって失った少女性
映画はラックスが屋根の上でセックスをしまくるところから不穏な予感がするようになっていきます。
母親によって家から出ることの一切を禁じられ、半ば閉じ込められた少女たち。
ラックスは毎日違う男と屋根の上でセックスをするようになります。
その様子を、少年たちは毎晩望遠鏡で覗いています。
少年の、少女たちとの不思議な同一化は収束に向かい、もう完全に本来の役割(=エロとしての消費対象)になっていくシーン。
原作には少年のうちの一人がセシリアの日記に精液をかけるシーンもあります。
少女たちとの同一化に終止符を打つ「トドメ」として、少女たちの自殺があります。
少女たちが死ぬことにより、少年は完全に同一化から絶たれます。
少女たちが死ぬ直前、少年がしていた妄想は「このまま親を忘れて少女たちを連れて旅に出る」という、少女たちを「エロとして消費したい」から「ヒロインを救済したい」願望に変化したともとれる、完全に女性性を失った「男」としての願望でした。
少年たちは大人になり、同一化そのものと決別します。
→ラストのセリフ
「はじめははっきり覚えていたのに、だんだん思いだせなくなった。」
あえて少女たちを主軸に読み取ろうとするならば、
「同化はウェルカムだが、大人の男としての願望なんて願い下げだ」といったところではないでしょうか。
このへんが、すべての女性に生きるのと引き換えに押し付けられた窮屈な条件、
子供→少女→若い娘→おばさん→老女
という、まるで別の生き物に変化するかのような扱いに適応しなくてはならないルールになんとかして反発したい女性の心情として、
フェミニズム的に感じられるシンパシーが、
この映画の最大の魅力のひとつになっているのではないかと考えられます。
また、全く別の話ですが、そもそも自殺を人間の「ひとつの行動」と捉えるならば、人がなにかをすることに秩序や理由はあるのか? というメッセージを込めた映画とする見方も面白いと思います。
たとえば、こういう経験はみんなあると思うのですが、
私はある日昼食にお好み焼きを食べた日に、
「なぜお好み焼きを食べたのか?安かったから?材料があったから?簡単だったから?食べたかったから?それとも無意識のうちにCMに影響されて?」
とついにわからなくなって思考停止したことがあります。
人間の行動のほとんどには明確な意味があるわけではないのに、
ことが「自殺」となるとみんな「何か原因はないか?」と探ってしまう、でも実際のところ本人だってわからないんじゃないでしょうか、というメッセージともとれて、興味深いです。
以上です。
ブログを初めて以来、これまで自分なりに未熟ながら何本かの映画を考察してきましたが、
今回はいつにもましてちょっと自信がないです。難しい……
9/14(土)文フリ告知 ~【酔っぱらいバタフライ】さんのアンソロに参加します~
9/14(土)大阪文学フリマ(
サークル名【酔っぱらいバタフライ】さんのアンソロジーに参加します。
サークル名:酔っ払いバタフライ(https://c.bunfree.net/c/osakabunfree02/!/A/8)主催:そにっくなーす(Twitter: @sweetsonicNs)さん
場所:A-8
認知的不協和を埋めるためにDVに勤しむ百合カップルの話を書きました。
残念ながら私は参加できませんが、大阪文フリに行く方はぜひお立ち寄りください(^^)
『思い出のマーニー』に漂うナルシズム ~映画全編を覆う水のイメージ~
「私は私が嫌い」、だけど「あなたのことが大好き」。
※ネタバレありです
土曜の錦糸町の、カップルの埋め尽くす劇場で、思い出のマーニー見てきました。
映画は
「私は私が嫌い」
という主人公・杏奈のモノローグから始まります。
oh...予想していたより陰鬱なオープニング……
「思春期の女の子同士の同性愛っぽい関係」といえば、不穏な予感しかしません。
1972年フランスの「小さな悪の華」
とか、
とか、
他にもエコールとか17歳のカルテとかピクニックアットハンギングロックとか、
思春期の女の子同士を扱った映画ってどうしてこんなにも不穏なものが多いんでしょうか。
ところで今回の『思い出のマーニー』ですが、
意外なことでしたが、主人公・杏奈はマーニーに会いに行くたびに倒れて路上で発見されるし、マーニーは夢の中にも出てくるし、
マーニーは実在せず、空想上の産物であることが映画では案外はっきりと示されています。
「お屋敷に独りで暮らす、美しい孤独な少女」という思春期の女の子の憧れを詰め込んだような設定の少女・マーニー。
これは「私は私が嫌い」な杏奈が、自分を愛するようになるまでの物語。
自分の妄想の産物であるマーニー=理想の自分を作り上げ、愛し、そのマーニーが自分を愛してくれることで、(なんて周りくどい作業)
杏奈は自分を愛することができるようになり、自分が周りの人たちに充分に愛されていたことに気付くことができます。
マーニーは実は杏奈の祖母の若いころの姿だった(重大なネタバレにつき反転処理)という大オチの意味するところも、
「自分の一部である」ということを補強するためというような気がします。
注目したいのは、全編を覆う水のイメージ。
杏奈は水辺の町に住んでおり、水の向こうにあるマーニーの住む屋敷を見つめています。
マーニーに会うにはボートを漕いでいかなくてはなりません。
よって、この映画は全編水の音に覆われています。波の音、パドルに押し出された水の動く音、水の中を裸足で走る濡れた音。(暗い映画館で見るととても気持ちいいです。入眠作用が…)
ギリシア神話に登場するナスキッソスが、水の表面に写った自分の姿しか愛せなくなり、スイセンの花に変えられたエピソードが表すように、
水とは自己愛の象徴と考えることが出来ます。
少女が自分を愛する、自己愛の物語は、全編が水の音に覆われていました。
今回は短めですが以上です。
余談ですが、「空想の中で好きな女の子に『あなたが必要なの!』と言わせる」あのシーンは、マルホランド・ドライブを彷彿とさせるような。
『渇き。』の加奈子は現代女子の偶像である ~クレバーな少女は誰も所有できない〜
※ネタバレ有りです
かつて、私が10代だったころ、私たちのカリスマは土屋アンナさんだった。
『下妻物語』の中の、黒い口紅を塗り原付きを乗り回す彼女の、「輪の外側の人間」感に憧れた。
「輪の外側」とは、今回「渇き。」を見る際に上映された予告編のジブリ映画『思い出のマーニー』のナレーションに使われていた言葉である。
本編が始まる前にまったく違う映画から出たこの「輪の外側」という言葉が、『渇き。』を見ている間じゅう頭から離れず、何度も繰り返した。
この「輪の外側」という言葉で今回見た『渇き。』を読み解くことが出来ると思ったからである。
特別詳しくもないのに恐縮だが、
中島哲也監督はこれまでの作品でも「輪の外側」を描き続けてきたようにも思える。
『下妻物語』は、ロリータ衣装に身を包み「輪の外側」を独りで愚直に生きる桃子(深田恭子)と、「輪の外側」を生きるため結果的に暴走族という輪の中に入って生きざるを得なくなってしまっている矛盾を抱えたイチコ(土屋アンナ)が、桃子との出会いをきっかけに「本当の自由」を手に入れる話だった。
『嫌われ松子の一生』は、「輪の内側」の人間だったはずの品行方正な教師・松子が悲劇をきっかけに輪の外へ外へと押し出されていく物語である。
『パコと魔法の絵本』は社会から隔絶された入院患者達の人生の美しさを描いた物語。
そして『告白』は、学校という内側の世界を統治していたはずの女性教師の、外側の世界での復讐劇でした。
つまり「輪」とは「マトモな人々の住むマトモな世界」 です。
そして中島監督の作品の中で、今回の『渇き。』は最も「輪の内側と外側」についてハッキリと描いた作品のように感じました。
①主人公(役所広司)にとって、愛することは所有すること。
中島哲也監督は、「人間の愛と、憎しみは対局にあるものではない。」とコメントで語っています。
これはどういう意味でしょうか。
主人公(役所広司)は、家のCM(ダイワハウス?)に代表される「美しい妻と可愛い娘のイメージ」を猛烈に恨んでいました。
主人公の
・別れた妻の寝込みをなぜかレイプしようとする
・娘を探す過程で途中まで娘を完全に理解できると思っている(途中で諦める)
・何の脈絡もなく妻も娘も殴る蹴る
などの行動から、彼にとって「家族を愛する」=「所有する」という式が成り立っていることがわかります。
少なからず日本社会はこの考えに支えられてきた側面があり、家族を持つ古いタイプの男性が陥りやすい考えだと思います。
ですが私は主人公のこの価値観を、映画の意図を汲もうとした結果か、あるいは劇中で主人公があまりにひどい目に遭いすぎるせいか 、あまり否定したくはないのです。
この話を進めるために、ちょっと話がそれますが私の父の話をさせてください。
私の父は家族にとっても親戚にとってもご近所さんにとっても大変迷惑なタイプの人でした。
大変なワンマンで、スイッチが入ると他人の話はまったく耳に入らず、しかもひと目で「これは敵わない」と後ずさりしたくなるほど太い指と太い腕を持つ大男なのです。
その父が、映画館の話をしたことがありました。
ある映画館で、火事が起きた。火事が起きたのに映画館のドアを押すタイプだと勘違いし、全員が焼け死んだ。許せない。誰か一人でも冷静な人がいれば、全員が助かったかもしれないのに。
今だったら私は、誰か一人冷静な人がいて、それで何になるんだと思うでしょう。
冷静な人がいたとしてもパニックになった人たちを前に為す術無く飲み込まれていくような気がするのです。
でも、子供の頃の私は、父なら本当にやるだろうと思いました。
そのドアが引くドアだと思ったなら、太い腕で人を強引に押しのけて進み、ドアをこじ開けるだろう。いつものあの、話の通じない「独裁モード」の顔をして。
それは絶望と安心の入り混じった気持ちでした。
「父の所有からは抜けられないんだ」という絶望と、「ここにいる限り安全」という安心。
「愛」=「所有」と考える厄介なタイプの父親も、迷惑なだけではなく子供にそういう安心を与えることはできるのでしょう。
この映画の中でも、主人公の所有欲求は、全面否定で描かれているわけではないと感じました。
主人公の(元)刑事という職業設定もあり、このような主人公の多少暴力的で失礼な言動も視聴者にとって「頼りがい」「行動力」として認識されるよう肯定的に描かれていたように思います。
主人公の悲劇は、「輪の外側」に出てしまったことです。
そのあまりに強すぎる所有欲のせいで、浮気した妻とその相手を、半殺しになるまで殴ってしまった。
社会は「家族を所有した男」が「所有物」の中で隠れて暴力をふるう分には寛容だけれど、家の外での犯罪行為となれば、マトモな社会という輪の内側からは追い出さないわけにはいきません。
「俺だって夢くらい見るさ。愛する妻と娘のいる家庭を……ぶっ壊してやることだ!」
所有欲の強い男にとって、所有できない家族には、強い憎しみが募ります。
「所有物」を失った男による愛=憎しみが、主人公の上記のセリフにあふれています。
② なのに、娘だけが所有できない。
主人公がついに娘をレイプするシーンも、「家族=所有物」という、所有欲求の表れと捉えることが出来ます。
あの上野千鶴子先生も著書『女ぎらい』の中で、
「妻というついに理解し合えない女よりも、いくばくかは自分のクローンで、若い肉体を持つ娘に、父親がそそられないわけがない」(文脈うろ覚え、申し訳ありません)ということも書いてます。
なのに、加奈子はその上をいく。
レイプされても笑いっぱなし(この埒のあかなさは1997年のリメイク版『ロリータ』を思い起こさせます)、それどころかセックスもドラッグも自在に乗りこなしてたことも、父親である主人公はだんだん知っていきます。
それもそのはず、わかりにくいですが加奈子は映画の始めから終わりまでただただ「自分の命をもって売春組織を壊滅させる」ためだけに動いているのです。
その後に暴力団から逃げられないことを見越して、一人だけさらっと楽に殺されてるし。
あっぱれ、とても「マトモな社会」の手に負えない能力と根性の持ち主です。
現代の女の子たちは当然知っています。
親や彼氏の「所有」しようとする力には、意志ではどうにもならないことを。
自分たちに商品としての価値があり、その背景にはどうやらなにか大きな怖いものがあるらしいことを。
諦めてしまうのではなく、のらりくらりとかわすでもなく、真正面から向き合って、なおかつそれらをものともせずに生きるには、絶望的なことですが、加奈子のようになるしかないのではないのでしょうか。
でもそんなクレバーすぎた少女加奈子は、マトモな社会の手に負えず、蔑まれて、恨まれて、刺されて、死ぬ。
女の絆でアナーキズムを貫こうとする『下妻物語』のころから「輪の外側」を描いてきた中島哲也監督のたどり着いた場所に旋律します。
そんな時代に「女」をやっていかざるを得ない私たちの明日はどっちだ。
長くなりましたが以上です。
余談ですが屋上でのオダジョーと役所広司の撃ち合いのときの「運動会感」はハンパないですね。
---------------
当記事を書くにあたり参考にさせていただきました。