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映画『渇き。』 ~映画とは主人公による観客へのハッキングである~

 

 

監督:中島哲也

製作:依田巽 鈴木ゆたか

プロデューサー:小竹里美 鈴木ゆたか

キャスト: 役所広司 小松菜奈 妻夫木聡

 

 

映画の可能性から考える子供への規制。

 

 ※ネタバレはないと思います

 

 

http://movies.yahoo.co.jp/movie/348084/review/29/)→こちらのレビューにもあるように、この映画は同じ一つの出来事を

 

加奈子の視点  →赤×ピンクのカワイイ映像

父の視点    →色のないモノクロの映像

「ボク」の世界 →ブルーが貴重の爽やかな映像

 

でそれぞれ描いています。

 

視点が変わるごとにまるで違う映画のよう。主軸となるストーリーが、登場人物それぞれにとってどう見えていたのかを視聴者にそのまま見せてくれます。

娘を探す父親がその過程で知っていく深刻でおぞましい出来事は、

加奈子には明るく楽しくカワイイ出来事であり、「ボク」にとっては美しい青春映画のような出来事だったのです。

 

これが映画の強みだ、と見ているうちに思いました。

小説や音楽よりも情報量が多い映画は、情報量が多い分想像の余地が狭まる代わりに色や動き、迫力で主人公の見ている世界を最も近い形で観客に体験させることが出来ます。

 

これについて話を進めるために、いきなり話が飛ぶようですが、違う映画の話を2本させてください。

 

 

 

押井守イノセンス」における「ゴーストハック」

 

 

イノセンス」では主人公たちが「ゴーストハック」されるシーンが繰り返し出てきます。

ゴーストハック:

ゴースト(意識)を乗っ取られる(ハッキングされる)こと。その結果ゴーストハックされた人間は、ハッカーが用意した情報を意識に擦り込まれる。そうなると、ハッカーが用意した現実に存在しないものの情報を「存在するもの」として知覚してしまう。そのため存在しない相手と戦うことになったり、自分がするつもりのなかった犯罪行為を「やらなければならないこと」と思って実行してしまう。(攻殻機動隊基本用語集<http://www.kyo-kan.net/oshii-ig/innocence/gitswords.html>より抜粋)

 

観客は主人公の体験しているゴーストハックを何の前触れもなく主人公と同時に体験させられるので、当然混乱します。(おそらくこの映画がいろんな人に「一回じゃ理解できない」と言われている最大の理由)

 

 

 

②『めぐりあう時間たち』における食べ物たち

 

 

監督スティーヴン・ダルドリーはこの映画のコメンタリーで「(この映画では)食べ物はできるだけグロテスクに描いた。なぜならヴァージニアの視点だからだ」とコメントしています。

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あんまり美味しくなさそう。

 

「何か食べろ」と夫に言われ続けているほぼ拒食症のヴァージニアは、メイドにも「奥様はいらないものをいるとおっしゃりいるものをいらないとおっしゃる」「欲しいものがないのよ」と嫌味を言われています。

この映画に映される料理はラムパイやカニ料理など、本来美味しそうなものばかりなのに、食欲を減退させるような絶妙な撮り方をされています。

(ちなみに、世界中で料理を作るのはほぼ女性であり、拒食症の患者も9割が女性だったりと、「食事」は常に女性と密着しているテーマなのだそうです)

監督のコメントを踏まえて意図的に料理に注目して見た場合は別ですが、観客の多くは随所随所で一瞬映る料理などほとんどちゃんと見ていません。それでいて、ヴァージニアの食事に感じている嫌悪感をしっかり体験して、共鳴しているのです。たぶん無意識に。

こういうすごいことができるのは映画ならでは、もっと言うと「上品」な映画ならではだと思います。

 

めぐりあう時間たち』は見終わった後、なぜか「死」に憧れや癒やしを求めてしまいそうになる映画です。

でも決して過激な内容ではなく上品な日常モノです。刺激を求めて見るような過激な映画は「虚構」として楽しめますが、これは観客を主人公側に共感させる過程が非常に丁寧です。

イノセンス』的なことを言いますが、これは『上質なハッキングほど自然に入ってくる』ということのような気がします。

 

個人的には、これは昨今話題になっている「映画の子供に与える影響」について考える際、吟味する必要があるような気がするのですが、どうでしょうか。

今回の『渇き。』も、R15であることがずいぶん話題になっていますが、虚構として見るのか共感して見るのか(あるいは製作者側は見る人をどっちに誘導しようとしているのか)は扱っている内容と同じくらい重要な気がします。

 

 

映画『渇き。』は私にとって、「映画のできること=主人公の感じた世界を疑似体験させること=同じ出来事でもキャラクターの見た世界はまったく違う、ということを示すことが出来る」を示してくれた、映画のすごさに改めて気がついた作品でした。

 

 

 

<余談>

感想を巡っていると、「子供に見せない方がいい」「むしろ防衛のために見せた方がいい」「子供を持つ親は見るべき」などなど、「親と子」に対するコメントがたくさんあるなあ~と感じました。

個人的には子供のころってこういう過激なものが楽しくて仕方がなかったので、きっと今よりもずっと作品を楽しんでいたような気がして、なんとも言えません。

それよりも思ったのがこういう感想を持つ人の中で「親と子」ってどこにいるんだろう? ということでした。具体的な誰かのことではなく、残酷なニュースを見たり聞いたりしたときに頭の中にだけ存在する「親」や「子」というイメージ、という感じ。

私自身が虐待のニュースを見て「バカ親」とか思ってそういうイメージをどんどん膨らませることが充分にあるので、これは自戒であるのですが、

「娘を追いながら品行方正だと思っていた娘の正体を全然知らなかったことに気付かされる」この映画って、むしろ本質を見ずにイメージでモノを捉えて言ったり書いたりしてしまう、こういう心理の怖さをテーマとしているのでは、という気がするのですが、どうでしょうか。 

 

 

 

次回は「薬指の標本(2005,仏)」のこととキルラキルのことをいまさら書きたいです。

今期はこのあとは「マレフィセント」と「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を見る予定です~

 

 

イノセント・ガーデン ~母のようにはなりたくないから、母を殺さない~

 

 

ブラック・スワンの製作スタッフが放つ」と銘打つ今作ですが、
ブラック・スワンのヒロインの破壊衝動が全て自分の内側に向かっているとしたら、こちらは全て外側に向かってしまった映画。
なので、最初から最後まで非常に血なまぐさい映画です。ミア・ワシコウスカの母親が、親戚のおばさんが、ボーイフレンドが、大変なことになってます。

 

※ネタバレ有りです

 

 

イノセント・ガーデン」の「イノセント」とは、

①インディアとその母の住む屋敷の美しい庭(すごい広い)のことであり、
②少女インディアの未知なる能力のことであり、
③インディアの人生における手付かずの「余白」であり、
④もちろんセックスの未経験者という意味での「処女」でもあると考えられます。

 

 

●男性目線からの処女性と、女性にとっての処女性

一般的に、「処女」はホモソーシャル的な男性からの目線ではとても価値のあることとされています。

それは処女が男性目線では「未使用の性」、「これから汚すことができる」魅力を有することからです。
女性が処女を喪失する時、男性は当事者ではありませんから、男性にとって「少女が汚れること」は単純に「失うこと/消滅すること」を意味します。
ところが、処女喪失の当事者にとっては、処女を失ってからも生きていくわけですから「失っておしまい」ではなく「変化する」ことであります。

それは「新しい自分に変わること」であり、そして映画冒頭での遠くを見つめるインディアの非常に満足した顔の理由なのでしょう。

「ドキドキしてるの……」と保安官にうっとり訴えるあのシーンは、保安官をこれから殺すことに対するドキドキだけではないのです。

「花が自分の色を選べないように、人は自分を選べない。そのことに気づけば自由になれる」。インディアが「処女」を失った先には、男性社会がとても手におえないような未来が待っているのです……

 


私の家の側の小さな図書館の「ジェンダー/女性論」のコーナーにも並べられている「女が邪魔をする」の著者である、アーティストで文筆家の大野左紀子さんは、『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣の中で、
『「男への幻想を捨てよ。しかし自己解放はほどほどにせよ。国や家族という共同体を大切にし、各々の社会的役割を遂行せよ」というのが、(作り手が意識しているかどうかは別にして)この作品の発している率直にして辛口なメッセージである』
『解放された女の力は何をしでかすかわからんアナーキーな暴力となって荒れ狂うので、愛でなだめ社会的居場所を与え適切にコントロールしなければならない、というわけだ。リベラル層に受けそうなフェミ味の砂糖衣をまぶしつつも、肝心なところはきっちりと男(社会)目線からの「女」が描かれている』
とおっしゃっております。


だとするとこちらは「解放されてしまったアナーキーな女の物語」。レイプ未遂のボーイフレンドをベルトで縛り、怪訝な顔で殴るけるを繰り返すあのシーンに9割の罪悪感と1割のドキドキを感じたのは私だけではないはず……

 

 


●父と母の施した、それぞれのインディアをなだめるための「愛」とは?


インディアの父は、狩りをさせることでインディアの殺人衝動をなだめていました。
いわく、「たまに悪いことをすれば最悪のことはしないもんだ」。

このセリフには町山智浩さんの「危険なメソッド」の解説を思い出しました。
かつて、酒もタバコも禁止され、抑圧されていた旧世代の女性たちはしばしば「ヒステリー」となり、「悪魔憑き」と考えられ例の有名な「エクソシスト」を呼んで、水ぶっかけられたり紐で縛られたりしていました。女性だってひたすら「大人しく、大人しく」と言われ続けたらおかしくなってしまいますが、エクソシストに暴力を受けることにより女性たちもエネルギーが解消されていたのだそうです。(なんですかその新手のSMみたいなのは……)

インディアの父が死に、インディアの衝動をなだめるものはなくなりました。そこへ誘惑者としての叔父が登場するのです。

 

 

●母のようにはなりたくないから、母を殺さない。


田房永子さんの「母がしんどい」がヒットし、「毒母」という概念が広く知れ渡りましたが、「イノセント・ガーデン」は製作者側の、「全面肯定」でも「全面否定」でもない母の描き方が非常に新しく、面白いと感じました。

 

例えば、食卓のなんてことない会話。

 

叔父「男に出来ることが、女に出来ないはずがない」
インディア「それってどういう意味?」
母「フランス語で聞いてみるといい響きよ」

 

……書いてて悲しくなってくるくらい、典型的なリア充母と根暗娘の噛み合ってない会話です。
特にこんなとこ読んでくれてる方はきっとオタクな方が多いと思うので、こういう経験したことある人多いのではないでしょうか。
なにせ、ニコール・キッドマン演じるこの母ときたら、終始「今しがた美容院に行ったばかり」というような髪型をして、喪中にも関わらず「ショッピングとアイスクリームはどんなときも人を元気にする」などとのたまうのです。私的には「やめろーやめろー!」と後ずさりしたくなりますが、みなさんはどうでしょうか。

 

ところが後半から、この母はひどく遠回しな方法で娘をずっと守っていたことがわかります。
母は娘と違い「女」であることを当たり前に内面化し、それを武器にできる女性でした。娘に危険が及ばないため、何も知らないフリをしつつチャーリー叔父を誘惑していたのです。
このあたり、私は「母は、この場所からずっと私を守ってくれていたのだ」とのナレーションで終わるン十年前に見たホラー映画「仄暗い水の底から」のラストを思い出しました。

 

母の首を締めながら、叔父は叫びます。「インディア、早く見に来い!」
しかし、インディアが撃ったのは母ではなくチャーリー叔父でした。
ここはきっと視聴者に用意された最大のサプライズ……あれ? もしかしてみんな予測できた?

 

インディアはなぜ母ではなく叔父を撃ったのでしょうか。
私はこれをシェイクスピアの「ハムレット」的世界に描かれた「王殺し」的な意味であると考えます。
その時代、王になるには王を殺すしかありません。王は2人いらない。
インディアの中には2つの衝動がひしめきあっていました。ひとつは「女性であることを安々と内面化し、大人しく生きることに何の疑問も感じていない母」の娘としての自分、もうひとつはサイコパス的狂人である叔父さん的な自分。
つまりインディアが「殺す」と選んだ方とは、これからの人生において「その人のような人生を選ぶ」と決めた方なのです。

 


●叔父さんの黄色いリボンとはなんだったのか?


 ところで、ヒロインの叔父さんであるチャーリーは、①の「インディアと母の住む屋敷の広大な美しい庭」に黄色いリボンのかかったプレゼント箱置くし、そのリボンをシューっと引っ張ってやたら見せつけながら外すし、黄色い傘貸してくるし、作品全体を通して「黄色」がイメージカラーとして使われています。
終始「おっさんのわりになんでそんな陽気な色なんだよ」と思っていたのですが、ラスト、保安官を撃ち殺したインディアが道路の上の「黄色いボーダーライン」を踏みつぶして歩き出すところで気が付きました。
チャーリー叔父さんは物語の中で「黄色いボーダーライン」そのものなのではないでしょうか。
シャーロット・パーキンス「黄色い壁紙」や、「頭のおかしい人は黄色い救急車がやってきて連れて行ってしまう」という日本の都市伝説が表すように黄色は「狂った人」の象徴としてよく使われます。
異端者であり、父や母にとって「狂った人」であったチャーリー叔父さんは、インディアの人生において「正常と異常の区切り」の位置に存在しています。

インディアは叔父さんを撃ち殺し、道路の黄色い線を踏みつぶしてその先へ歩いて行くのです。
叔父さんはインディアにとって、「母の娘としての人生と、狂人としての人生とのボーダーライン」の役割を果たしているのでした。

 

 

 

 

すっかり長くなってしまいましたが以上です。

上記ではまったく言及できませんできたが最初から最後まで映像がとてもカワイイんです、でもなんか画面逐一キャプチャして「Earth music and ecology」って付けたくなる~~~~。

そして主演のミア・ワシコウスカアリス・イン・ワンダーランドにもジェーン・エアにもキッズ・オールライトにも主演で出てたしなんか時代のヒロインじゃないですか? 「意思の強い可愛い子ちゃん」顔なのか? アメリカ版宮崎あおいポジション?

ド直球なテーマだし個人的にはこの映像美もあってこの先何度も繰り返し見ると思います~~~

 

 

 

『トリスタントイゾルデ』に描かれる身体性と思想性 ―ロマンティック・ラブ・イデオロギーの役割―

 

 

 

 

こちらを見てきました。

 

 

トリスタンとイゾルデ [DVD]

 

 

 

ちゃんと探していないのですが、

キスシーンドーンなパッケージしかないんでしょうか?笑

内容としては、

なんでこの絵しかないんだろう? って思うくらい真面目なものでした。

 

以下感想

 

 

 『トリスタンとイゾルデ』は中世に宮廷詩人たちが広く語り継いできた悲恋物語である。

 私はこの物語を、「人が社会生活を送っていく上で培われる思想性(理性)を非人間的なものとし、身体性(恋)によってそれを取り戻そうとする物語」、社会への人間の反抗の物語であると感じた。

 

イゾルデはアイルランドの姫であり、トリスタンはコーンウォールのマルク王に育てられた騎士である。

アイルランド王を悩ませていた竜を倒したトリスタンはアイルランド王の娘トリスタンを得、イゾルデをマルク王の妻とすることを求め、マルク王もこれを承諾する。

二人はコーンウォールへ向かう船で「王と初夜に飲むための」媚薬を誤って飲んでしまい、激しい情愛に囚われることとなる。

 

原作とともに2006年の映画版『トリスタンとイゾルデ~あの日に誓う物語~』を参考にした。

トリスタンはマルク王に隊長に任命される際、「感情を理性で抑えられる冷静な男」と紹介されるほど「思想性」に寄った社会的な男である。

対して、イゾルデはトリスタンとの出会いの場で「感情が不要なものならなぜ心があるの。触れるべきじゃないものならなぜ欲しくてたまらないの」とトリスタンに語るような身体性(人間味溢れる豊かな感情)に近い人物である。つまりトリスタンから見たイゾルデはトリスタンの持たざるもの、「人間味溢れる豊かな感情」を持った女性である。

 

 

この物語において「毒」と「媚薬」が重要な役割を果たしている。

トリスタンは戦いで敵の毒により重症を負い、「どんな毒でも取り除ける」王妃に預けられ、命を救われている。更に誤って飲んだ媚薬の効果に翻弄され続けることとなるのだ。

「薬」は人間の知力によって作られた社会的なものであるが、体の中に入ってその作用を発揮し、体を操ってしまうことで身体的なものとなる。

物語において媚薬は「二人の気持ちはどうしようもないもの」として観客のシンパシーを誘う役割と同時に、思想性と身体性の橋渡しとしての役割も果たしている。

 

イゾルデがマルク王の妻となってからは、トリスタンとイゾルデ、マルク王はお互いへの気持ちを保ち続けた。

トリスタンは師として、また王としてマルク王を敬愛していたし、マルク王は妻としてイゾルデを、息子としてトリスタンを愛していた。またイゾルデは、政略結婚であるにもかかわらず優しいマルク王に感謝していた。

 

三人の関係について、2006年のケヴィン・レイノルズ版の映画では象徴的なセリフがある。

 

トリスタン「自分には愛は必要ありません」

王「なぜだ」

トリスタン「他に重要なものがあるからです。義務や忠義といった」

イゾルデ「それはからっぽの人生よ。愛は神様が作ったもの。目を背けると地獄の苦しみを味わう」

 

これは、最も直接的にこの作品の中での恋愛至上主義、つまり「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を表すシーンであり、イゾルデは体と愛(感情)がくっついている人物であることを表す象徴的なシーンである。

 

王「なぜそっけないんだトリスタン。この石の城は私とお前の作ったものじゃないか」

トリスタン「いまは牢獄です。この中では全てが虚しく感じる」

 

このセリフからは、トリスタンと王がトリスタンと王は別々の人間として存在するのではなく、「石の城」の中でくっついているのではないかと感じた。つまり、トリスタンと王の繋がりは社会の中に生きるの人間の思想性によった繋がりを表しているように感じる。

 

人生において「妊娠、出産」が重要な意味を持つ女性にとって、身体性からは離れられないものである。

それに対して男性は、自らの思想と身体を切り離し、社会との強い繋がりの中で同性同士で繋がっている。

イゾルデは愛と体がくっついているので、トリスタンを心から愛していると同時に、王のことも愛することが出来るのだ。(ギャッツビーを愛しているにも関わらず長年夫婦として暮らしたトムのことを愛してもいる『華麗なるギャッツビー』のデイジーと重なる部分もある。しかし物語の中でギャッツビーにはそれが理解できないようだ)

 

映画の中で、奇妙なシーンがある。王に隠れて別室で密会していたはずのトリスタンとイゾルデが体を重ねるシーンが、とつぜんマルク王とイゾルデの体を重ねるシーンに変わるのである。

場所も同じであり、場面転換も唐突なので、視聴者からは、イゾルデの相手だけがとつぜん入れ変わってしまったように感じる。

イゾルデはトリスタンや王と身体的な愛で繋がるのに対し、トリスタンと王は体を使わず思想性で繋がる(ここにも愛がある。ある意味ではホモセクシュアル的である)。

上記のシーンはその2つを同時に表すシーンのような気がした。

 

 

それは映画序盤の、瀕死の状態のトリスタンを、イゾルデとその乳母が裸で温めるシーンとも重なる。

トリスタン、イゾルデ、乳母、三人の人間が洞穴の中で裸でくっつきあう姿は、三人は別々の個体ではなく「人間という一つの生き物」という感じがした。

それらのことから、「思想性のもと作られる社会に反抗し、恋をして身体性に翻弄されることで人間味を取り戻す」この物語の意味は、足りないものを求め合い「完全な人間」となるため奔走する人間を表しているのではないかと考えることも出来る。

 

 

このように、中世のこの物語において恋とは、社会という思想性への反抗を行うことによって人間の身体性を取り戻す意味を果たしていたのではないだろうか。

 

 

身分制度がある程度崩れ、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が大衆にとって身近になった時代に描かれた『華麗なるギャッツビー』では、恋は現実に打ちのめされる儚い夢の一部であり、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の更に主流になった村上春樹の『ノルウェイの森』では、恋が辛い現実と主人公をなんとかくっつける緩和剤としての役割を果たす。

 

 

以前私は、『華麗なるギャッツビー』の感想として、「ロマンス」は「非合理の合理化」であると考えた。

今回『トリスタンとイゾルデ』を読み、かつて身分制度の厳重だった社会において、ロマンスは社会に反抗する手段であり、人間にその力を与えてくれたものだったのではないかと考えるようになった。

また、「少子化」や「若者の恋愛離れ」が問題視される現代は、既に『ロマンティック・ラブ・イデオロギー』が社会と一体化している側面があり、恋をすることそのものが社会制度に従うことに変化してしまったのではないだろうか。

 

 

5月5日文学フリマ発行本 “溶けてなくなる” サンプル

 

5月5日文学フリマにて、

 

“溶けてなくなる”

サークル名:殴って(ぶって)

(B-16 / Eホール1F 純文学)

(A6、60ページ、価格未定)

 

という本を発行します。

 殴って@第十八回文学フリマB-16 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

今日から、本文から抜粋してサンプルを載せていきますので、

ご参考に慣れば幸いです。

 

 

 

 

 

“溶けてなくなる”

 (1~2ページより)

 

 

子供のころから、ずっと考えていることがある。

 たとえばレモンからすべての要素を抜くことができたとして――黄色い、すっぱい、丸い、硬い、その他すべて――りんごの要素を入れることができたとしたら――味、色、歯ごたえ、その他すべてだ――それは「りんご」だろうか。

 人から認識されるすべての要素が「りんご」だとしても、レモンの本質は残るはずだ。誰も見たことのない、レモンの本質。

 だけど――レモンの皮を削ぐ。見ているだけの場合において、レモンの果肉が実際よりより甘やかに見えるのはなぜだろう――あまねくすべての人がそれを「りんご」と言ったとして、レモンの本質に意味などあるのだろうか? それはりんごであることと何が違うのだろう。

 

 

私の右脚だったものを、ゴミ袋に入れた。

 不恰好な形だ、と切に思った。

それは私の脚といわれるよりは、何か別のもの――日のあたらないところでぶくぶくと伸び続けてしまった植物とか――と言われたほうがずっとそれらしいと思った。

子供のころ、祖父の部屋にはそういうものがたくさんあった。何も入っていない鳥かごとか、ほんもののうさぎの毛を被ったインディアンの人形とか。祖父の部屋で見た、茶色い液体の満たされたビンに入った木の根たち。ビンは壁一面に並んでいて、さまざまな形をしていたけれど、どれも青白い色をしていた。死んだ植物の色。

祖父の部屋は真昼でも薄暗く、とても清潔なにおいがした。私は冷たい椅子に座って、外の世界を想像した。窓の外からときどき聞こえる音と、厚いカーテンの間からぷつぷつと射し込むわずかな光。

袋の中の脚を見ている気分は、「悲しみ」とはまた別の何かのような気がした。

うるさい場所でやっと眠りにつけたときのような、寝転んで窓から空を見上げたときの、突き落とされたような、それでいて自分の体が広がっていくような、そういう感覚。

 

 

 

次回以降もう少し続きを掲載いたします

 

 

華麗なるギャツビー―ロマンスの狂気の犠牲となったギャツビー―

 

 

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バズ・ラーマン版の『華麗なるギャツビー』が公開されてから、約一年が経ったのですね。明日参加させていただく読書会でフィッツ・ジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を読むそうなので、整理がてら感想を書こうと思います。

 

 

●犠牲者の物語

華麗なるギャツビー』の書き出しはこうである。

 

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられてわけではないのだと」

 

 これは、人が間違いを犯したとき、一度その人の立場に立ってものを考えてみよう、という意味である。『華麗なるギャツビー』とは、罪を犯した者、間違った者の事情を汲み取る物語である。

 『華麗なるギャツビー』には、二人の犠牲者がいる。一人はギャツビー、もう一人はマートルである。二人とも、貧乏の出身で1920年代に夢を見た者たちである。ギャツビーはロマンス、マートルはお金である。

 

●1920年代のの狂気

 1920年代のアメリカには2つの夢が満ちていた。

 その1つがロマンスである。身分の差にとらわれず、お互いの気持ちさえあれば自由に恋愛、結婚ができるというものである。このロマンスとは、狂気を孕んでいる。つまり、非合理の合理化である。身分の違いも、その後の生活で苦しい思いをすることになる可能性も、みんな「体から溢れる熱に逆らえない」「これは運命」ということにしてしまえば、簡単に合理化出来る。これは周囲に反対され、貧乏であることから本人からも一度は却下されながら、再びゼルダと婚約したフィッツ・ジェラルドも、例外なく感じていたことなのだろう。

 もう一つの夢はアメリカンドリーム、つまりお金である。お金さえあれば、出生にかかわらず上流階級の仲間入りができるという夢である。貧乏な自動車整備工の妻であったマートルは、トムの愛人になることで上流階級に仲間入りできる夢を見る。

 マートルはアメリカンドリームの犠牲となり、ギャツビーはロマンスの犠牲となり、死んだ。

 

●マトモな世界とロマンスの世界

 デイジーの最も印象的な言葉の一つに、以下がある。

「知ってる? お金持ちはね、貧乏人と結婚しないの」

 かつて、デイジーもギャツビー同じ、ロマンスの世界の住人であった。しかしデイジーはトムと結婚することで、お金持ちのマトモな世界で生きることを選んだのである。

 「お金持ちのマトモな世界」の女性はどのような女性だろうか。それを表すキャラクターが、ジョーダンである。彼女はプライドの高い、堂々とした女性であり、一見すると「男に媚びない、新し女性」風である。

 

Jordan Baker instinctively avoided clever, shrewd men, and now I saw that this was because she felt safer on a plane where any divergence from a code would be thought impossible. She was incurably dishonest. She wasnt able to endure being at a disadvantage and, given this unwillingness, I suppose she had begun dealing in subterfuges when she was very young in order to keep that cool, insolent smile turned to the world and yet satisfy the demands of her hard, jaunty body.

 

しかし彼女はスポーツ選手でありながら不正行為が新聞に載りかけたこともありるし、不利な状況では平気で嘘をつく「救いがたい不誠実」な女性である。また、

 

Youre a rotten driver, I protested. Either you ought to be more careful, or you oughtnt to drive at all. I am careful. No, youre not. Well, other people are, she said lightly. Whats that got to do with it? Theyll keep out of my way, she insisted. It takes two to make an accident. Suppose you met somebody just as careless as yourself. I hope I never will, she answered. I hate careless people. Thats why I like you.

 

ドライブ中の上記のやりとりからわかるように、ジョーダンは「自分の足りないところは男性であるニックに補ってもらえば良い」という、「媚びない女性」とは180度逆の考え方である。

 このようにジョーダンは一見男性に媚びない女性風でありながら、実は一般的な女性の価値観を内面化した女性である。対してデイジーは、従順な少女のような女性風でありながら、トムと結婚することでなんとかマトモな世界で生きている。二人のキャラクターは、当時の一般的な女性と新しい女性を表している。

 

●時代が見せた幻想

 当時の人々が夢見たロマンスも、アメリカンドリームも、結局「時代が見せた幻想」であったという結論で、物語は終わる。生き残ったのは、一度はロマンスの世界に生きながら、最終的にはマトモな世界に戻ったデイジーである。

 マートルやギャツビーが夢見た「お金持ちの世界」とは、平気でウソをつき、スポーツで不正を行い、生まれつきの金持ち以外が足を踏み入れることを汚い手を使って阻止してしまう世界であった。

 この物語は、自由な時代の空気に夢を見た二人の人物が、結局変わっていなかった世界の犠牲となり、死ぬ物語である。

「みんなと同じになれない」エネルギーの暗さと力強さ。―映画【アナと雪の女王】についての雑記―

 

 アナと雪の女王 オリジナル・サウンドトラック

 

これまで多くのディズニーの主人公たちが、物語の始まりに、いわゆる【Wantソング】を歌ってきた。

 

たとえば、美女と野獣の「朝の風景」。

町の人達に「変わり者」と引かれるベルが「おとぎ話みたいに素敵なできこと」を求める気持ちを歌う。

タンポポの綿毛を飛ばすシーンに憧れた人も多いはず。

 

泡が立ちのぼるようなメロディが素敵なリトル・マーメイドの「パート・オブ・ユア・ワールド」は、

父親に反発するアリエルの地上の世界に憧れる歌である。

 

ノートルダムの鐘では、寺院の中にまさに物理的に「閉じ込められた」主人公が、

外の世界に憧れる気持ちを歌う。

(そういえば、ラプンツェルも物理的に塔の外へという気持ちだ) 

 

いずれも所属するコミュニティの中で「どこか人と違う」主人公が、

小さな世界では満足できず、大きな世界に飛び出したい!というエネルギーを歌う歌たち(=Wontソング)である。

 

それはちびっこたちに大きく希望を抱かせるメッセージであろうし、

同時におそらく、かつて「自由」を貫きイギリスを離れ、

荒野を開拓して生きてきたことに原点を持つアメリカの姿でもあるのかも知れない。

 

前置きが長くなったが、今回の【アナと雪の女王】のエルサの歌うWontソングは暗い、ものすごく暗い!

いや、サビのところとかものすごくいいメロディだしエルサの表情はイキイキしてるし、

跳んだり回ったりすると氷の城がどんどん作られていくところなんかは私たちの「氷とか透明で硬いものに対する子供心的な憧れ」(小さいころ、氷で思いっきり遊んでみたかったよね? この映画はそれを擬似体験できるよ!)みたいなものもあってなかなか「暗い」感じはしないんだけども、

歌ってる内容は「いろいろどうせ無理だからもういい!」っていう吹っ切れソングとも言えるような後ろ向きなことでした。

 

暗いWontソングといえばかつて’98年の「ムーラン」も他の主人公たちのように「外に飛び出したい」前向きなエネルギーというよりは「プレッシャーや呪縛が強すぎてここから出るのは難しい」という要素の強いシリアスなWontソングでしたが、今回はそれともまた違う。

 

これまでディズニーは「自分らしく生きよう」というメーッセージを何十年にもわたって発信し続けてきたわけですが、

自分らしさを貫くことは同時に周囲とのつながりを断絶してしまう/孤独に生きることでもあるということはあえて描いてこなかったように思います。

今回の【アナと雪の女王】はそれに正面から向き合った作品ではないでしょうか。

 

そういう意味で今回の【アナと雪の女王】は、

セルフパロディみたいにディズニー自ら作ったおとぎ話のイメージへの皮肉とブラックジョークたっぷりな「魔法にかけられて」よりも、

「おとぎ話の定番」を崩しにかかった「プリンセスと魔法のキス」や「ラマになった王様」よりも、

あるいみずっと斬新な作品だと思います。

 

あとこれ、芸術活動する人たちにはすっごく共感できると思うのですが、

何かをつくるにあたって「負のエネルギー」って動力源としてはすごいんですよね。

怒りとか怖さとか世の中に対する不信感とか。

それで作ったものがなぜかカッコよかったり魅力的な作品になったりするのですが、

でもそれって基本的にはキモいし悲しい力で。

「冷たい」とか「暗い」イメージのある氷の力に吹っ切れてイキイキ歌うエルサを見て、そういうのを感じました。

でもなんかたまにそういうのをすごいすごーいって言ってくれる人がいて複雑な気持ちで、

でもそういう存在が自分と社会を繋げていたりして。

エルサにとってそういう存在が、アナだったのかなって思います。

 

この映画はエルサを孤独に向かわせる(でも魅力的な)負のエネルギーと、

世界との共存の話なのかなって思いました。

 

ところでプリキスや魔法にかけられてあたりから怪しくなってきてましたが今回なんか「プリンス」が全然「ハッピーエバーアフター」として機能しなくなってきてるのが面白いですね。

果たしてディズニーの向かう先はこれからどうなっていっちゃうのか要チェックであります。

5月5日文学フリマ出展情報

花粉症って度がすぎると歯まで痛くなるんですね…



ところで、
5月5日文学フリマにスペースがとれたので、
お知らせします。

うまくいけば
【存在の耐えられない淡さ ※仮題】
という本が出ている予定です。

結婚すると女性個人の身には何が起こるの?
何を感じるの?
ということを文学の形で綴った短編小説です。

詳細が決まりましたら当ブログにてお知らせします。

初参加ですし、とても楽しみです。
よろしくお願いします。