11月24日文学フリ参加情報
ヴァージン・スーサイズ ~精液をかけることによって失った少年の中の少女性~
私たち20代女性の永遠の謎、ヴァージン・スーサイズ。
少年たちの憧れの美しき五人姉妹は、映画のラストで何の前触れもなく突然自殺。
しかも理由については一切語られない。
この謎多き映画については解説サイトもたくさんあるのですが、何しろ映画側から与えられた情報が皆無なので、「これだ!」という明瞭な答えを言い当てたものはないような気がします。
そのことについて一生懸命考えてみたのですが、
自分なりに達した結論は「これは少女たちの物語ではなく少年たちの物語だからではないか?」ということでした。
これは始めから終わりまで少年たちの成長物語であり、少年たちに全くわからないことは我々にも伝えようがないのではないのでしょうか。
原作の顛末は、全て少年たちの視点で語られています。
①少年はなぜ少女たちを「観察」したか
これは原作を読んでかなり印象的だったのですが、少年たちは思春期ということもあって意志が頼りなげで、自己が確立せず揺れ動いています。
唯一一貫しているのは「大人の男になりたい」という強い強いエネルギーです。(思春期っぽい!)
少年たちにとって、「憧れの五人姉妹の生活を覗くこと」は大人の男の持つ性的欲求の模倣であったことはほぼ間違いないと思います。
②ただただエロい人形であったはずの少女たちとの不思議な同化
しかし、ここがこの物語の最大のミソであると思うのですが、
自己の確立していない少年たちは、 大人の男の模倣として少女を性的対象として観察しながら、
少女たちを観察し、日記を読み、生理用品を物色するうちに少女と同化してしまうのです。
「僕らはセシリアの日記から、彼女たちの生活を垣間見た。女の子であることの窮屈さ。彼女たちは大人で、僕らは騒々しいだけの子供だった」(原作より抜粋)
このセリフには少年たちが自分が自己が確立されていないことを認めつつ(→「彼女たちは大人で、僕らはただ騒々しいだけの子供だった」)、
同化していく心理がよく表れていると思います。
また、映画には、ラックスのバスルームに入った少年が、口紅を凝視し、フタを開け匂いをかぐ(ほとんど付けようとする)シーンが挿入されています。
これは少年の心が懐疑的ながら「オンナ」に同化していくことを表すコッポラさんの非常に上手なシーンだと思うのですが、いかがでしょうか。
③精液をかけることによって失った少女性
映画はラックスが屋根の上でセックスをしまくるところから不穏な予感がするようになっていきます。
母親によって家から出ることの一切を禁じられ、半ば閉じ込められた少女たち。
ラックスは毎日違う男と屋根の上でセックスをするようになります。
その様子を、少年たちは毎晩望遠鏡で覗いています。
少年の、少女たちとの不思議な同一化は収束に向かい、もう完全に本来の役割(=エロとしての消費対象)になっていくシーン。
原作には少年のうちの一人がセシリアの日記に精液をかけるシーンもあります。
少女たちとの同一化に終止符を打つ「トドメ」として、少女たちの自殺があります。
少女たちが死ぬことにより、少年は完全に同一化から絶たれます。
少女たちが死ぬ直前、少年がしていた妄想は「このまま親を忘れて少女たちを連れて旅に出る」という、少女たちを「エロとして消費したい」から「ヒロインを救済したい」願望に変化したともとれる、完全に女性性を失った「男」としての願望でした。
少年たちは大人になり、同一化そのものと決別します。
→ラストのセリフ
「はじめははっきり覚えていたのに、だんだん思いだせなくなった。」
あえて少女たちを主軸に読み取ろうとするならば、
「同化はウェルカムだが、大人の男としての願望なんて願い下げだ」といったところではないでしょうか。
このへんが、すべての女性に生きるのと引き換えに押し付けられた窮屈な条件、
子供→少女→若い娘→おばさん→老女
という、まるで別の生き物に変化するかのような扱いに適応しなくてはならないルールになんとかして反発したい女性の心情として、
フェミニズム的に感じられるシンパシーが、
この映画の最大の魅力のひとつになっているのではないかと考えられます。
また、全く別の話ですが、そもそも自殺を人間の「ひとつの行動」と捉えるならば、人がなにかをすることに秩序や理由はあるのか? というメッセージを込めた映画とする見方も面白いと思います。
たとえば、こういう経験はみんなあると思うのですが、
私はある日昼食にお好み焼きを食べた日に、
「なぜお好み焼きを食べたのか?安かったから?材料があったから?簡単だったから?食べたかったから?それとも無意識のうちにCMに影響されて?」
とついにわからなくなって思考停止したことがあります。
人間の行動のほとんどには明確な意味があるわけではないのに、
ことが「自殺」となるとみんな「何か原因はないか?」と探ってしまう、でも実際のところ本人だってわからないんじゃないでしょうか、というメッセージともとれて、興味深いです。
以上です。
ブログを初めて以来、これまで自分なりに未熟ながら何本かの映画を考察してきましたが、
今回はいつにもましてちょっと自信がないです。難しい……
9/14(土)文フリ告知 ~【酔っぱらいバタフライ】さんのアンソロに参加します~
9/14(土)大阪文学フリマ(
サークル名【酔っぱらいバタフライ】さんのアンソロジーに参加します。
サークル名:酔っ払いバタフライ(https://c.bunfree.net/c/osakabunfree02/!/A/8)主催:そにっくなーす(Twitter: @sweetsonicNs)さん
場所:A-8
認知的不協和を埋めるためにDVに勤しむ百合カップルの話を書きました。
残念ながら私は参加できませんが、大阪文フリに行く方はぜひお立ち寄りください(^^)
『思い出のマーニー』に漂うナルシズム ~映画全編を覆う水のイメージ~
「私は私が嫌い」、だけど「あなたのことが大好き」。
※ネタバレありです
土曜の錦糸町の、カップルの埋め尽くす劇場で、思い出のマーニー見てきました。
映画は
「私は私が嫌い」
という主人公・杏奈のモノローグから始まります。
oh...予想していたより陰鬱なオープニング……
「思春期の女の子同士の同性愛っぽい関係」といえば、不穏な予感しかしません。
1972年フランスの「小さな悪の華」
とか、
とか、
他にもエコールとか17歳のカルテとかピクニックアットハンギングロックとか、
思春期の女の子同士を扱った映画ってどうしてこんなにも不穏なものが多いんでしょうか。
ところで今回の『思い出のマーニー』ですが、
意外なことでしたが、主人公・杏奈はマーニーに会いに行くたびに倒れて路上で発見されるし、マーニーは夢の中にも出てくるし、
マーニーは実在せず、空想上の産物であることが映画では案外はっきりと示されています。
「お屋敷に独りで暮らす、美しい孤独な少女」という思春期の女の子の憧れを詰め込んだような設定の少女・マーニー。
これは「私は私が嫌い」な杏奈が、自分を愛するようになるまでの物語。
自分の妄想の産物であるマーニー=理想の自分を作り上げ、愛し、そのマーニーが自分を愛してくれることで、(なんて周りくどい作業)
杏奈は自分を愛することができるようになり、自分が周りの人たちに充分に愛されていたことに気付くことができます。
マーニーは実は杏奈の祖母の若いころの姿だった(重大なネタバレにつき反転処理)という大オチの意味するところも、
「自分の一部である」ということを補強するためというような気がします。
注目したいのは、全編を覆う水のイメージ。
杏奈は水辺の町に住んでおり、水の向こうにあるマーニーの住む屋敷を見つめています。
マーニーに会うにはボートを漕いでいかなくてはなりません。
よって、この映画は全編水の音に覆われています。波の音、パドルに押し出された水の動く音、水の中を裸足で走る濡れた音。(暗い映画館で見るととても気持ちいいです。入眠作用が…)
ギリシア神話に登場するナスキッソスが、水の表面に写った自分の姿しか愛せなくなり、スイセンの花に変えられたエピソードが表すように、
水とは自己愛の象徴と考えることが出来ます。
少女が自分を愛する、自己愛の物語は、全編が水の音に覆われていました。
今回は短めですが以上です。
余談ですが、「空想の中で好きな女の子に『あなたが必要なの!』と言わせる」あのシーンは、マルホランド・ドライブを彷彿とさせるような。
『渇き。』の加奈子は現代女子の偶像である ~クレバーな少女は誰も所有できない〜
※ネタバレ有りです
かつて、私が10代だったころ、私たちのカリスマは土屋アンナさんだった。
『下妻物語』の中の、黒い口紅を塗り原付きを乗り回す彼女の、「輪の外側の人間」感に憧れた。
「輪の外側」とは、今回「渇き。」を見る際に上映された予告編のジブリ映画『思い出のマーニー』のナレーションに使われていた言葉である。
本編が始まる前にまったく違う映画から出たこの「輪の外側」という言葉が、『渇き。』を見ている間じゅう頭から離れず、何度も繰り返した。
この「輪の外側」という言葉で今回見た『渇き。』を読み解くことが出来ると思ったからである。
特別詳しくもないのに恐縮だが、
中島哲也監督はこれまでの作品でも「輪の外側」を描き続けてきたようにも思える。
『下妻物語』は、ロリータ衣装に身を包み「輪の外側」を独りで愚直に生きる桃子(深田恭子)と、「輪の外側」を生きるため結果的に暴走族という輪の中に入って生きざるを得なくなってしまっている矛盾を抱えたイチコ(土屋アンナ)が、桃子との出会いをきっかけに「本当の自由」を手に入れる話だった。
『嫌われ松子の一生』は、「輪の内側」の人間だったはずの品行方正な教師・松子が悲劇をきっかけに輪の外へ外へと押し出されていく物語である。
『パコと魔法の絵本』は社会から隔絶された入院患者達の人生の美しさを描いた物語。
そして『告白』は、学校という内側の世界を統治していたはずの女性教師の、外側の世界での復讐劇でした。
つまり「輪」とは「マトモな人々の住むマトモな世界」 です。
そして中島監督の作品の中で、今回の『渇き。』は最も「輪の内側と外側」についてハッキリと描いた作品のように感じました。
①主人公(役所広司)にとって、愛することは所有すること。
中島哲也監督は、「人間の愛と、憎しみは対局にあるものではない。」とコメントで語っています。
これはどういう意味でしょうか。
主人公(役所広司)は、家のCM(ダイワハウス?)に代表される「美しい妻と可愛い娘のイメージ」を猛烈に恨んでいました。
主人公の
・別れた妻の寝込みをなぜかレイプしようとする
・娘を探す過程で途中まで娘を完全に理解できると思っている(途中で諦める)
・何の脈絡もなく妻も娘も殴る蹴る
などの行動から、彼にとって「家族を愛する」=「所有する」という式が成り立っていることがわかります。
少なからず日本社会はこの考えに支えられてきた側面があり、家族を持つ古いタイプの男性が陥りやすい考えだと思います。
ですが私は主人公のこの価値観を、映画の意図を汲もうとした結果か、あるいは劇中で主人公があまりにひどい目に遭いすぎるせいか 、あまり否定したくはないのです。
この話を進めるために、ちょっと話がそれますが私の父の話をさせてください。
私の父は家族にとっても親戚にとってもご近所さんにとっても大変迷惑なタイプの人でした。
大変なワンマンで、スイッチが入ると他人の話はまったく耳に入らず、しかもひと目で「これは敵わない」と後ずさりしたくなるほど太い指と太い腕を持つ大男なのです。
その父が、映画館の話をしたことがありました。
ある映画館で、火事が起きた。火事が起きたのに映画館のドアを押すタイプだと勘違いし、全員が焼け死んだ。許せない。誰か一人でも冷静な人がいれば、全員が助かったかもしれないのに。
今だったら私は、誰か一人冷静な人がいて、それで何になるんだと思うでしょう。
冷静な人がいたとしてもパニックになった人たちを前に為す術無く飲み込まれていくような気がするのです。
でも、子供の頃の私は、父なら本当にやるだろうと思いました。
そのドアが引くドアだと思ったなら、太い腕で人を強引に押しのけて進み、ドアをこじ開けるだろう。いつものあの、話の通じない「独裁モード」の顔をして。
それは絶望と安心の入り混じった気持ちでした。
「父の所有からは抜けられないんだ」という絶望と、「ここにいる限り安全」という安心。
「愛」=「所有」と考える厄介なタイプの父親も、迷惑なだけではなく子供にそういう安心を与えることはできるのでしょう。
この映画の中でも、主人公の所有欲求は、全面否定で描かれているわけではないと感じました。
主人公の(元)刑事という職業設定もあり、このような主人公の多少暴力的で失礼な言動も視聴者にとって「頼りがい」「行動力」として認識されるよう肯定的に描かれていたように思います。
主人公の悲劇は、「輪の外側」に出てしまったことです。
そのあまりに強すぎる所有欲のせいで、浮気した妻とその相手を、半殺しになるまで殴ってしまった。
社会は「家族を所有した男」が「所有物」の中で隠れて暴力をふるう分には寛容だけれど、家の外での犯罪行為となれば、マトモな社会という輪の内側からは追い出さないわけにはいきません。
「俺だって夢くらい見るさ。愛する妻と娘のいる家庭を……ぶっ壊してやることだ!」
所有欲の強い男にとって、所有できない家族には、強い憎しみが募ります。
「所有物」を失った男による愛=憎しみが、主人公の上記のセリフにあふれています。
② なのに、娘だけが所有できない。
主人公がついに娘をレイプするシーンも、「家族=所有物」という、所有欲求の表れと捉えることが出来ます。
あの上野千鶴子先生も著書『女ぎらい』の中で、
「妻というついに理解し合えない女よりも、いくばくかは自分のクローンで、若い肉体を持つ娘に、父親がそそられないわけがない」(文脈うろ覚え、申し訳ありません)ということも書いてます。
なのに、加奈子はその上をいく。
レイプされても笑いっぱなし(この埒のあかなさは1997年のリメイク版『ロリータ』を思い起こさせます)、それどころかセックスもドラッグも自在に乗りこなしてたことも、父親である主人公はだんだん知っていきます。
それもそのはず、わかりにくいですが加奈子は映画の始めから終わりまでただただ「自分の命をもって売春組織を壊滅させる」ためだけに動いているのです。
その後に暴力団から逃げられないことを見越して、一人だけさらっと楽に殺されてるし。
あっぱれ、とても「マトモな社会」の手に負えない能力と根性の持ち主です。
現代の女の子たちは当然知っています。
親や彼氏の「所有」しようとする力には、意志ではどうにもならないことを。
自分たちに商品としての価値があり、その背景にはどうやらなにか大きな怖いものがあるらしいことを。
諦めてしまうのではなく、のらりくらりとかわすでもなく、真正面から向き合って、なおかつそれらをものともせずに生きるには、絶望的なことですが、加奈子のようになるしかないのではないのでしょうか。
でもそんなクレバーすぎた少女加奈子は、マトモな社会の手に負えず、蔑まれて、恨まれて、刺されて、死ぬ。
女の絆でアナーキズムを貫こうとする『下妻物語』のころから「輪の外側」を描いてきた中島哲也監督のたどり着いた場所に旋律します。
そんな時代に「女」をやっていかざるを得ない私たちの明日はどっちだ。
長くなりましたが以上です。
余談ですが屋上でのオダジョーと役所広司の撃ち合いのときの「運動会感」はハンパないですね。
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当記事を書くにあたり参考にさせていただきました。
映画『渇き。』 ~映画とは主人公による観客へのハッキングである~
監督:中島哲也
製作:依田巽 鈴木ゆたか
プロデューサー:小竹里美 鈴木ゆたか
映画の可能性から考える子供への規制。
※ネタバレはないと思います
(http://movies.yahoo.co.jp/movie/348084/review/29/)→こちらのレビューにもあるように、この映画は同じ一つの出来事を
加奈子の視点 →赤×ピンクのカワイイ映像
父の視点 →色のないモノクロの映像
「ボク」の世界 →ブルーが貴重の爽やかな映像
でそれぞれ描いています。
視点が変わるごとにまるで違う映画のよう。主軸となるストーリーが、登場人物それぞれにとってどう見えていたのかを視聴者にそのまま見せてくれます。
娘を探す父親がその過程で知っていく深刻でおぞましい出来事は、
加奈子には明るく楽しくカワイイ出来事であり、「ボク」にとっては美しい青春映画のような出来事だったのです。
これが映画の強みだ、と見ているうちに思いました。
小説や音楽よりも情報量が多い映画は、情報量が多い分想像の余地が狭まる代わりに色や動き、迫力で主人公の見ている世界を最も近い形で観客に体験させることが出来ます。
これについて話を進めるために、いきなり話が飛ぶようですが、違う映画の話を2本させてください。
「イノセンス」では主人公たちが「ゴーストハック」されるシーンが繰り返し出てきます。
ゴーストハック:
ゴースト(意識)を乗っ取られる(ハッキングされる)こと。その結果ゴーストハックされた人間は、ハッカーが用意した情報を意識に擦り込まれる。そうなると、ハッカーが用意した現実に存在しないものの情報を「存在するもの」として知覚してしまう。そのため存在しない相手と戦うことになったり、自分がするつもりのなかった犯罪行為を「やらなければならないこと」と思って実行してしまう。(攻殻機動隊基本用語集<http://www.kyo-kan.net/oshii-ig/innocence/gitswords.html>より抜粋)
観客は主人公の体験しているゴーストハックを何の前触れもなく主人公と同時に体験させられるので、当然混乱します。(おそらくこの映画がいろんな人に「一回じゃ理解できない」と言われている最大の理由)
②『めぐりあう時間たち』における食べ物たち
監督スティーヴン・ダルドリーはこの映画のコメンタリーで「(この映画では)食べ物はできるだけグロテスクに描いた。なぜならヴァージニアの視点だからだ」とコメントしています。
あんまり美味しくなさそう。
「何か食べろ」と夫に言われ続けているほぼ拒食症のヴァージニアは、メイドにも「奥様はいらないものをいるとおっしゃりいるものをいらないとおっしゃる」「欲しいものがないのよ」と嫌味を言われています。
この映画に映される料理はラムパイやカニ料理など、本来美味しそうなものばかりなのに、食欲を減退させるような絶妙な撮り方をされています。
(ちなみに、世界中で料理を作るのはほぼ女性であり、拒食症の患者も9割が女性だったりと、「食事」は常に女性と密着しているテーマなのだそうです)
監督のコメントを踏まえて意図的に料理に注目して見た場合は別ですが、観客の多くは随所随所で一瞬映る料理などほとんどちゃんと見ていません。それでいて、ヴァージニアの食事に感じている嫌悪感をしっかり体験して、共鳴しているのです。たぶん無意識に。
こういうすごいことができるのは映画ならでは、もっと言うと「上品」な映画ならではだと思います。
『めぐりあう時間たち』は見終わった後、なぜか「死」に憧れや癒やしを求めてしまいそうになる映画です。
でも決して過激な内容ではなく上品な日常モノです。刺激を求めて見るような過激な映画は「虚構」として楽しめますが、これは観客を主人公側に共感させる過程が非常に丁寧です。
『イノセンス』的なことを言いますが、これは『上質なハッキングほど自然に入ってくる』ということのような気がします。
個人的には、これは昨今話題になっている「映画の子供に与える影響」について考える際、吟味する必要があるような気がするのですが、どうでしょうか。
今回の『渇き。』も、R15であることがずいぶん話題になっていますが、虚構として見るのか共感して見るのか(あるいは製作者側は見る人をどっちに誘導しようとしているのか)は扱っている内容と同じくらい重要な気がします。
映画『渇き。』は私にとって、「映画のできること=主人公の感じた世界を疑似体験させること=同じ出来事でもキャラクターの見た世界はまったく違う、ということを示すことが出来る」を示してくれた、映画のすごさに改めて気がついた作品でした。
<余談>
感想を巡っていると、「子供に見せない方がいい」「むしろ防衛のために見せた方がいい」「子供を持つ親は見るべき」などなど、「親と子」に対するコメントがたくさんあるなあ~と感じました。
個人的には子供のころってこういう過激なものが楽しくて仕方がなかったので、きっと今よりもずっと作品を楽しんでいたような気がして、なんとも言えません。
それよりも思ったのがこういう感想を持つ人の中で「親と子」ってどこにいるんだろう? ということでした。具体的な誰かのことではなく、残酷なニュースを見たり聞いたりしたときに頭の中にだけ存在する「親」や「子」というイメージ、という感じ。
私自身が虐待のニュースを見て「バカ親」とか思ってそういうイメージをどんどん膨らませることが充分にあるので、これは自戒であるのですが、
「娘を追いながら品行方正だと思っていた娘の正体を全然知らなかったことに気付かされる」この映画って、むしろ本質を見ずにイメージでモノを捉えて言ったり書いたりしてしまう、こういう心理の怖さをテーマとしているのでは、という気がするのですが、どうでしょうか。
次回は「薬指の標本(2005,仏)」のこととキルラキルのことをいまさら書きたいです。
今期はこのあとは「マレフィセント」と「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を見る予定です~
イノセント・ガーデン ~母のようにはなりたくないから、母を殺さない~
「ブラック・スワンの製作スタッフが放つ」と銘打つ今作ですが、
ブラック・スワンのヒロインの破壊衝動が全て自分の内側に向かっているとしたら、こちらは全て外側に向かってしまった映画。
なので、最初から最後まで非常に血なまぐさい映画です。ミア・ワシコウスカの母親が、親戚のおばさんが、ボーイフレンドが、大変なことになってます。
※ネタバレ有りです
「イノセント・ガーデン」の「イノセント」とは、
①インディアとその母の住む屋敷の美しい庭(すごい広い)のことであり、
②少女インディアの未知なる能力のことであり、
③インディアの人生における手付かずの「余白」であり、
④もちろんセックスの未経験者という意味での「処女」でもあると考えられます。
●男性目線からの処女性と、女性にとっての処女性
一般的に、「処女」はホモソーシャル的な男性からの目線ではとても価値のあることとされています。
それは処女が男性目線では「未使用の性」、「これから汚すことができる」魅力を有することからです。
女性が処女を喪失する時、男性は当事者ではありませんから、男性にとって「少女が汚れること」は単純に「失うこと/消滅すること」を意味します。
ところが、処女喪失の当事者にとっては、処女を失ってからも生きていくわけですから「失っておしまい」ではなく「変化する」ことであります。
それは「新しい自分に変わること」であり、そして映画冒頭での遠くを見つめるインディアの非常に満足した顔の理由なのでしょう。
「ドキドキしてるの……」と保安官にうっとり訴えるあのシーンは、保安官をこれから殺すことに対するドキドキだけではないのです。
「花が自分の色を選べないように、人は自分を選べない。そのことに気づけば自由になれる」。インディアが「処女」を失った先には、男性社会がとても手におえないような未来が待っているのです……
私の家の側の小さな図書館の「ジェンダー/女性論」のコーナーにも並べられている「女が邪魔をする」の著者である、アーティストで文筆家の大野左紀子さんは、『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣の中で、
『「男への幻想を捨てよ。しかし自己解放はほどほどにせよ。国や家族という共同体を大切にし、各々の社会的役割を遂行せよ」というのが、(作り手が意識しているかどうかは別にして)この作品の発している率直にして辛口なメッセージである』
『解放された女の力は何をしでかすかわからんアナーキーな暴力となって荒れ狂うので、愛でなだめ社会的居場所を与え適切にコントロールしなければならない、というわけだ。リベラル層に受けそうなフェミ味の砂糖衣をまぶしつつも、肝心なところはきっちりと男(社会)目線からの「女」が描かれている』
とおっしゃっております。
だとするとこちらは「解放されてしまったアナーキーな女の物語」。レイプ未遂のボーイフレンドをベルトで縛り、怪訝な顔で殴るけるを繰り返すあのシーンに9割の罪悪感と1割のドキドキを感じたのは私だけではないはず……
●父と母の施した、それぞれのインディアをなだめるための「愛」とは?
インディアの父は、狩りをさせることでインディアの殺人衝動をなだめていました。
いわく、「たまに悪いことをすれば最悪のことはしないもんだ」。
このセリフには町山智浩さんの「危険なメソッド」の解説を思い出しました。
かつて、酒もタバコも禁止され、抑圧されていた旧世代の女性たちはしばしば「ヒステリー」となり、「悪魔憑き」と考えられ例の有名な「エクソシスト」を呼んで、水ぶっかけられたり紐で縛られたりしていました。女性だってひたすら「大人しく、大人しく」と言われ続けたらおかしくなってしまいますが、エクソシストに暴力を受けることにより女性たちもエネルギーが解消されていたのだそうです。(なんですかその新手のSMみたいなのは……)
インディアの父が死に、インディアの衝動をなだめるものはなくなりました。そこへ誘惑者としての叔父が登場するのです。
●母のようにはなりたくないから、母を殺さない。
田房永子さんの「母がしんどい」がヒットし、「毒母」という概念が広く知れ渡りましたが、「イノセント・ガーデン」は製作者側の、「全面肯定」でも「全面否定」でもない母の描き方が非常に新しく、面白いと感じました。
例えば、食卓のなんてことない会話。
叔父「男に出来ることが、女に出来ないはずがない」
インディア「それってどういう意味?」
母「フランス語で聞いてみるといい響きよ」
……書いてて悲しくなってくるくらい、典型的なリア充母と根暗娘の噛み合ってない会話です。
特にこんなとこ読んでくれてる方はきっとオタクな方が多いと思うので、こういう経験したことある人多いのではないでしょうか。
なにせ、ニコール・キッドマン演じるこの母ときたら、終始「今しがた美容院に行ったばかり」というような髪型をして、喪中にも関わらず「ショッピングとアイスクリームはどんなときも人を元気にする」などとのたまうのです。私的には「やめろーやめろー!」と後ずさりしたくなりますが、みなさんはどうでしょうか。
ところが後半から、この母はひどく遠回しな方法で娘をずっと守っていたことがわかります。
母は娘と違い「女」であることを当たり前に内面化し、それを武器にできる女性でした。娘に危険が及ばないため、何も知らないフリをしつつチャーリー叔父を誘惑していたのです。
このあたり、私は「母は、この場所からずっと私を守ってくれていたのだ」とのナレーションで終わるン十年前に見たホラー映画「仄暗い水の底から」のラストを思い出しました。
母の首を締めながら、叔父は叫びます。「インディア、早く見に来い!」
しかし、インディアが撃ったのは母ではなくチャーリー叔父でした。
ここはきっと視聴者に用意された最大のサプライズ……あれ? もしかしてみんな予測できた?
インディアはなぜ母ではなく叔父を撃ったのでしょうか。
私はこれをシェイクスピアの「ハムレット」的世界に描かれた「王殺し」的な意味であると考えます。
その時代、王になるには王を殺すしかありません。王は2人いらない。
インディアの中には2つの衝動がひしめきあっていました。ひとつは「女性であることを安々と内面化し、大人しく生きることに何の疑問も感じていない母」の娘としての自分、もうひとつはサイコパス的狂人である叔父さん的な自分。
つまりインディアが「殺す」と選んだ方とは、これからの人生において「その人のような人生を選ぶ」と決めた方なのです。
●叔父さんの黄色いリボンとはなんだったのか?
ところで、ヒロインの叔父さんであるチャーリーは、①の「インディアと母の住む屋敷の広大な美しい庭」に黄色いリボンのかかったプレゼント箱置くし、そのリボンをシューっと引っ張ってやたら見せつけながら外すし、黄色い傘貸してくるし、作品全体を通して「黄色」がイメージカラーとして使われています。
終始「おっさんのわりになんでそんな陽気な色なんだよ」と思っていたのですが、ラスト、保安官を撃ち殺したインディアが道路の上の「黄色いボーダーライン」を踏みつぶして歩き出すところで気が付きました。
チャーリー叔父さんは物語の中で「黄色いボーダーライン」そのものなのではないでしょうか。
シャーロット・パーキンス「黄色い壁紙」や、「頭のおかしい人は黄色い救急車がやってきて連れて行ってしまう」という日本の都市伝説が表すように黄色は「狂った人」の象徴としてよく使われます。
異端者であり、父や母にとって「狂った人」であったチャーリー叔父さんは、インディアの人生において「正常と異常の区切り」の位置に存在しています。
インディアは叔父さんを撃ち殺し、道路の黄色い線を踏みつぶしてその先へ歩いて行くのです。
叔父さんはインディアにとって、「母の娘としての人生と、狂人としての人生とのボーダーライン」の役割を果たしているのでした。
すっかり長くなってしまいましたが以上です。
上記ではまったく言及できませんできたが最初から最後まで映像がとてもカワイイんです、でもなんか画面逐一キャプチャして「Earth music and ecology」って付けたくなる~~~~。
そして主演のミア・ワシコウスカはアリス・イン・ワンダーランドにもジェーン・エアにもキッズ・オールライトにも主演で出てたしなんか時代のヒロインじゃないですか? 「意思の強い可愛い子ちゃん」顔なのか? アメリカ版宮崎あおいポジション?
ド直球なテーマだし個人的にはこの映像美もあってこの先何度も繰り返し見ると思います~~~